卓話時間
第1295例会
2006年06月12日 (月曜日)
- タイトル :
- 追悼例会「故城本正昭会員を偲んで」
- 卓話者 :
- 高石稔名誉会員、田原榮一君、吉清有三君、緒方俊平君
○城本夫人
ご逝去された故城本正昭会員の夫人が5月28日(日)葬儀会葬の御礼と、チャーターメンバーとして多くの行事に同席された思い出などをお話しいただきました。
○設立から共に‥
故城本正昭会員と広島中央RCを設立したチャーターメンバーとして、当時の思い出をお話しいただきました。
城本正昭氏の追悼文
城本正昭様がお亡くなりになって23日たちました。
あのお元気であつた城本様が、3月6日突然倒れられ、病院にて加療の甲斐なく、5月19日、発病後ニヶ月という余りにも早くご逝去されましたこと、私には信じられないのであります。
ご退院後自宅にお見舞いした時、「来週は友人のお祝いに出席するのだ」と云われた活き活きとした姿は、私は今でも忘れることができません。その後、急に病態が悪化して、帰らぬ人となられましたことは、ご家族にとつては無論のこと、広島中央ロータリークラブにとっても、痛恨の極みであります。
例会では、城本様といつも並んで昼食を共にしてまいりましたが、今はそれを叶う事も出来ず悲しい限りです。2月20日が城本様と共にした最後の例会であり、3月1日が最後の夕食会でした。城本様が、私にいつも呼びかけられる言葉、「田原先生」という声が、私の耳から離れられないのであります。城本様には、もう10年長生きしていただきかつたと思います。
城本様は、広島中央ロータリークラブ設立以来27年間、わがクラブの生みの親、育ての親として、ロータリーの運営・管理・活動に多大の尽力を尽くされました。昭和53年にチャーターメンバとして入会され、五代目の会長と分区代理を務められておられます。また、城本様は、ロータリンの手引きである「手続要覧」を、いつも例会には持参され、ロータリーの規範に対する強い信念と正義感をお持ちの方でした。
同時に、忘れてならないことは、城本様は熊野町商工会の設立・運営に設立当時より尽力され、商工会会長として熊野町の経済発展に寄与するかたわら、永年にわたりスポーツ振興にも多大な情熱を注ぎ、広島県体育協会熊野町スポーツ少年団本部長、広島県総合型地域ネツトワーク筆の里スポーツクラブ運営委員長、NPO法人熊野町健康スポーツ振興会理事長、その上、広島筆産業株式会社代表取締役、広島県信用組合副理事長、財団法人けんしん育英文化振興財団理事長等、様々な要職を務められ、奉仕活動を積極的に行って来られたのであります。特に、複雑多岐にわたる現代社会に生きる子供達に対して、心身とも健全で、明るい元気な子供を育てることを主体とした様々なスポーツ活動や社会奉仕活動を実施されました。将に、城本様はロータリーアンの中のロータリーアンでした。これまでの城本様の様々なご功績と奉仕活動に対して心から敬意と謝意を捧げます。
私が、広島中央ロータリークラブに入会して以来、24年間この上なく、今日ご臨席のご令室様と共に親しくお付き合いする機会に恵まれたことは、私の光栄の至りであります。一昨年城本様ご夫妻と一緒に美術同好会で山陰に旅行したこと今懐かしく思い出されます。また、城本様には、財団法人広島がんセミナーの副理事長として、財団の設立そして管理・運営に多大のご支援とご指導をいただきまして、誠に有り難うございました。もし城本様のご支援がなかたならば、財団の設立と公益法人の認可はあり得なかつたと思います。広島がんセミナーは来年15周年を迎えますが、今後財団を維持し且つ財団の使命に向けて更に努力して参ります。
ここで、城本様のご令室様にお願いがあります。城本様には、素晴らしいご長男健司様がおられ、数年後にはアメリカから帰国されると伺っております。帰国後是非わがロータリークラブにお入り頂き、城本様と同様にまた一緒に奉仕活動できることを心からお待ち申し上げております。
最後に、わがクラブはまだまだ未熟であり、歴史的にみて27歳という青年であります。今後、30年、50年とわが広島中央ロータリークラブがより充実し発展し、品格と品性のあるクラブになるために、我々は、城本様のことを忘れず、お互いに自己研鑽し、ロータリーの奉仕活動をより実践する覚悟であります。どうぞ我々をお守り下さい。
合掌
平成18年6月12日
財団法人広島がんセミナー理事長、広島大学名誉教授 田原榮一
城本正昭会員を偲んで‥
私が城本さんと出会ったのは、入会間もない時期にあったクラブアッセンブリーでした。
多分‥‥
入会順に席が決められて、チャーターメンバーの城本さんと、入会したばかりの私の席がたまたま隣りどうしでした。
そこで、名刺交換をさせて頂き、「仕事は何をしているのか?」と聞かれました。
「デザイン関係です。」と申し上げたところ、「丁度良かった。明日にでも会社へ来てくれんか‥」‥と云うわけで翌日、広島筆産業さんを訪問させていただきました。
熊野町のレトロな街並みを見たのは、30年ぶりでした。
母親の里が、苗代でしたので、小学校の頃、広電バスに揺られて、何度か通った記憶があったのですが、町は、かなり変わっていました。
城本さんから、初めて依頼を受けたのが会社のロゴマークでした。
約、1か月かけて現在のロゴを作ったわけですが、発表の場に、専務、常務と現町長の平本さんがおいでになり、緊張したのを覚えています。
それから15年になります。 15年間の城本さんの思い出というか、関わったことは色々な引き出しにいっぱい詰まっています。その引き出しを少し明けてお話しをさせて頂きますと、‥
仕事では、筆の里工房のアドバイザー、熊野町商工会のアドバイザーなどに指名頂き、多くの事を学ばせて頂きました。
夏には、奥様手作りの冷たいあんみつを社員の方々と一緒に、ご馳走になりながら打合せをさせていただいきました。社員の方々がとても美味しそうに召し上がっている姿には感銘をうけます。
社員の方々は、みなさん純粋に城本ご夫妻の応援団であるのが良く分かります。
だからこそ、地元の伝統的工芸品である「筆」を、世界に発信するための仕掛けを積極的に進めておられました。自分の企業で経験したノウハウを元に、失敗しないよう恥をかかないよう商工会長としての、リーダーシップはRCの比ではなかったと思います。
ロータリーで忘れることが出来ない、楽しい思い出の一つが、東南との合同夜間例会で、100名以上参加したジャンケンゲームです。
殆ど飲めない私が、一口飲んでいたせいでしょうか、たまたま、私に勝利の女神がほほえんでくれました。
城本さんは、それを大変喜んでいただき、「わしゃマンがええ人が大好きじゃ、今日は一緒に飲みにでよう」と、誘って頂き、夜遅くまでおつきあいさせて頂きました。
また、色々な行事に参加するとき、車に同乗させていただきました。車中ではRCのことを
色々と教えて頂きました。口癖は「要項をしっかり読むこと」と、「勝手な解釈をしてはいけない」でした。 2000-2001年度、会計を担当した年には、途中から幹事も担当することになり、一つのトラブルが発生してしまいました。
当時。担当副会長だった城本さんの自宅へ問題解決の相談に、夜お邪魔をしたことがあります。
車のなかから電話をして、「今、向かっていますので、‥」と云ったところ
「こんでもええ‥」 「すみません、もうすぐ着きます」 「ほいじゃしょうがない‥おる」
もう、今では何のトラブルか覚えていませんが、「ちどり」のすしをご馳走になって返って来たことだけが記憶にのこっています。
喜怒哀楽がトレードマークのように思われがちでしたが、私には「人生の師」の一人でもありました。
幹事の時には、随分助けて頂きましたし、助言も頂きましたことを本当に感謝しています。
最後に、誰よりも、熊野町を愛し、RCを愛した城本さんに、こころからご冥福をお祈りいたします。
合唱
城本会員を追悼して
城本さんは、いつもスポーツクラブのプールで御一緒になっていました。力強く長時間プールの中を歩いて、健康そのものでした。
ロータリーの活動についても、定款細則に根拠を置いた運営をいつも教示いただいておりました。私も今年60歳になりますが、実の親はすでに亡く、親から叱られることも褒められることもなくなりました。
ところが、ロータリーの諸先輩は皆、実の親の代わりに私たちを励まし、時には窘め、人生の指針与えてくれます。
その中のお一人である城本さんを失ったことは社会の親を失ったことでもあります。しかし、その志を引き継いで後輩のために育んでゆくことが、私共残された者の責務だろうと思います。いつまでも感傷的にならず、明るく楽しく、クラブ活動を行ってこそ、城本先輩に報いる道だと決意しています。「合掌」
緒方俊平