卓話時間
第1263例会
2005年10月03日 (月曜日)
- タイトル :
- 伊豆下田と唐人おきち
- 卓話者 :
- 迫田勝明君
伊豆下田では毎年5月「黒船祭り」が盛大に行われている。「黒船祭り」の由来は、1854年黒船が来航し、それにより日本が開国したことによるが、「唐人おきち」は黒船来航と関係があることは知られているが、真実は余り知られていない。
下田は、古くから海路の要所として、風待ち港として栄えていたが、四国の阿波の国(徳島県)の藩船(蜂須賀藩)が江戸に塩を送っていたことから、行きも帰りも下田に寄港し、ここに宿をとった事から、阿波藩の定宿に指定された。
黒船が来航した時も、下田港は江戸幕府が船番所を置き、上り下りする船舶の「船改め」をやった海上交通の要所であった。
1852年 3月、米提督マシュウ・カルブレイス・ペリー(56歳)は 東インド艦隊司令長官になり、日本遠征を命じられた。
1853年7月ペリーは、4叟の艦隊を率いて浦賀に到着し、鴨居鳥ヶ崎に投錨する。泰平の眠りから目覚めた日本は、 近代国家へ向かうとともに国際社会へのデビューを飾ることになった。 浦賀地域はその第一幕の舞台である。当時の江戸は人口100万であり、その食料のほとんどは海路で搬入していたが、陸路だけだと4万人分の食料しか確保できなかったと言う。だから、ペリーに江戸の入り口に当る浦賀を黒船に占拠されるのは幕府として極めて苦しい状態であった。
1853年 7月8日 ペリーは、浦賀奉行所与力中島三郎助、香山栄左衛門らと折衝し、7月14日 久里が浜に上陸し(下図)、アメリカ大統領の親書を渡した。7月17日 来春、再来すると言い残し、浦賀から退去した。
翌1854年、 ペリーは7叟の艦隊を率いて再び来日し、浦賀に来航し品川沖で測量などしたが、下田に移された。
2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは下田港に上陸し、礼砲を轟かせ、300人の水兵に大砲を曳かせて軍楽隊とともに了仙寺まで行進した。
吉田松蔭は、ペリー艦隊が来航したとき、浪人の身であったが、ペリー艦隊を追って浦賀から下田に到着した。下田は今でこそ、熱海から特急で1時間半くらいで行けるが、熱海からの経路は非常に厳しい。吉田松陰と1歳年下の金子重輔は、あのペリーの黒船に乗船を企てようとして、天城越えではなく海岸沿いに歩いて下田まで行ったという。
松陰らは、役人の目を逃れるため岡方村の岡村屋に宿泊し、蜜航の機会をうかがっていた。松蔭は、金子重輔とともに国禁を犯してペリーの旗艦ポウハタンへの密航を企てた。ペリーは松陰らを捕らえたが、松陰らが幕府に捕まらないようにわざわざ夜明けの暗いうちに上陸させたが、松陰は自首し、江戸伝馬町の獄に投獄された。その後、松陰は長州の野山獄に移された。
1854年3月31日(3月3日)、横浜で日米和親条約を締結した。
タウンゼント・ハリス(Townsend Harris、1804年 ?1878年)は、アメリカ合衆国の外交官であったが、1849年にはサンフランシスコで貨物船の権利を購入し、貿易業を開始し、世界各地を航行して東洋へ至った。
ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に運動し、まずは寧波の領事に任命された。アメリカへ帰国したハリスは、1854年に日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された領事駐在の就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命された。
ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益の確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられた。
ハリスは通訳兼書記官でオランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856年に出発。ヨーロッパから香港経由で8月に日本へ到着し、伊豆の下田へ入港した。
日本では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行に入港を拒否されるなどのトラブルもあったが、折衝の末に正式許可を受け、下田の玉泉寺に領事館を構えた。ハリスは大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、江戸出府は留保された。
ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、1856年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されるのを恐れて、ハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可した。ハリス、ヒューケンらの一1857年10月に下田を出発し、江戸に入った。
1858年には同年に大老となった井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しで通商条約締結に踏み切り、安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)、日本とアメリカ合衆国の間で日米修好通商条約が締結された。日本側は下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震、アメリカ側の全権は駐日総領事タウンゼント・ハリスとで神奈川沖のポウハタン号上で調印された。
タウンゼント・ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田の領事館を閉鎖して、下田を出発し、江戸の麻布に公使館を置いたが、1858年には初代駐日公使となった。
1858年、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田の玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼した。
しかし、当時の日本人には看護婦というものの概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのが17歳のお吉だった。お吉は新内明烏(しんないあけがらす)のお吉とうたわれるほどの評判と美貌であった。支度金25両、年給金120両という大金で雇われたが、実際に領事館へ通ったのはわずか3夜の事だったと言う。
当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持っており、外国人に身を任せることを恥とする風潮があり、幼馴染の婚約者もいることからお吉は固辞したが、17歳で下田奉行所支配頭取・伊差新次郎の執拗な説得に折れハリスの侍妾(じしょう)となった。当初、人々はお吉に対して同情的な目を向けていたが、羽振りの良くなっていくお吉に対し次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3月後、お吉は解雇され再び芸者となった。
1868年、芸者を辞めかつての幼馴染と横浜で同棲するようになるが、ますます酒に溺れるようになり、下田に戻り髪結業を営み始めたが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。夫婦仲は余り上手くいかず、離婚してしまう。鶴松は離婚後1年で他界した。
お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋(安直楼)を開くが、既にアルコール依存症となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになった。唐人、ラシャメンと呼ばれ辛い人生を歩んだ。
お吉は明治24年3月25日、豪雨の夜、稲生沢川の淵(お吉ケ淵)の上流で投身した。今も毎年3月25日にはお吉が淵ではお吉祭りが行われている。宝福寺竹岡大乗師が慈愛の心から3月27日、人夫二名とひきとりに出てねんごろに埋葬し釈貞歓尼という法名を諱った。
お吉はハリスの侍妾として、と同時に、米側の真意を知る手段として、且つまた日米通商に当って日本側が有利になるようさしむけられた時代の敗者であるが、当時町の指弾を受けたのは人種的偏見ばかりではなく、破格な支度金や年金を受けたことへの嫉妬、おのが娘を外人に近づかせぬために親達がとったお吉への社会的制裁と考えられる。お吉の悲劇的生涯は、人間が人間を殺す「偏見」と「権力」その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身を以って教えているようである。
タウンゼント・ハリス(Townsend Harris、1804年 ?1878年)は、1862年には病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望むものの、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9ヶ月の滞在を終えて帰国した。ハリスはプロテスタントであり、妻子は無く、生涯独身であった。従って、ハリスは妾を置く必要はなかった。
辞任の理由に関しては、ハリスの日記に日本滞在中に体調が優れなかった健康上の事情が記されており、また本国において共和党のリンカーンが大統領となっていたことや、南北戦争の故郷への影響を心配していたとも指摘されている。
毎年、身を投じた命日(3月27日)には、下田芸者やフラワーミッションの若い女性により、ここでお吉の法要が行われる。(お吉祭り)
その後、萩で松下村塾を開くが、
幕府の条約調印に関して、閣老間部詮勝の要撃を謀って捕らえられ、翌年江戸で斬。