卓話時間
第1262例会
2005年09月26日 (月曜日)
- タイトル :
- 私と鉄道業界
- 卓話者 :
- 堀江裕明君
私と鉄道業界
(はじめに)
ホテルニューヒロデンの堀江でございます。中央ロータリークラブには私の前任者の大林が平成12年まで入会しておりまして、その後任という縁で、今年の3月に入会させていただきました。現在ホテル業に携わりまして丸5年となりますが、それまでは広島電鉄で、電車部門及び人事・労務部門を中心に歩んでおりましたので、本日は鉄道業に携わってきた経験の中から、広島電鉄そして電車について話をさせていただければと思っております。
皆様にご興味を持っていただけるかどうか心配ですが、恐らく一度は電車にお乗りいただいたことがあるのではないかと思いますし、本日の話を通じて、少しでも電車を身近なものに感じていただければ幸に存じております。
(少年時代そして経歴)
今年度は卓話の中で「少年時代の話をせよ」と、プログラム委員長より厳命を受けておりますので、最初に子供のころの話を少し。
私は島根県の西の端、益田市に隣接した美都町笹倉という所で、昭和27年に生まれました。山の中の小さな集落で、戸数は40戸くらいだったと記憶しております。典型的な農村地帯で山と田んぼに囲まれ、蓮華畑や分校の校庭、神社の境内そして山の中でと友達と遊び回り、川では魚釣り、冬には竹ソリ・竹スキーと、今こうして思い起こすと楽しかったことしか思い出せません。少年時代の話をするとキリがないのでこの辺りでやめますが、一点だけ触れますと私は小学校の3年生まで分校で過ごし、4年生から4キロ離れた本校へ通いました。分校の生徒は14人、先生は勿論1人で複々式学級です。当時は分校が4校あり月に一度の合同授業、そして運動会・学芸会は本校と一緒に行ったものでした。本校の生徒に囲まれて殴られたり、いじめられたりしたこともよくありましたが、今となっては懐かしい思い出となっております。
(入社・私鉄業界)
長じまして高校・大学を経て、昭和52年に広島電鉄に入社しました。高校・大学時代から鉄道業界へ入ろうと思っていたわけでもありませんし、地元に帰る気もありませんでしたので、日本ならどこでもよいと思っていたのですが、如何せん当時は就職難で、とにかく求人の来ていた所を受けていたらたまたま受かった所が今の会社だったというわけです。
入社した当時の広島電鉄は今と同様、電車・バス・不動産の三本柱で事業を展開していましたが、当時はバスのウエイトが非常に高く、売上高・従業員数とも電車部門の倍以上だったと記憶しております。バス部門は昭和30年代からのモータリゼーションの進展に伴う乗客減に見舞われ、ワンマン化を中心とする合理化の真っ只中にあり、また電車部門も同様にモータリゼーションの荒波に揉まれた40年代の危機的状況から、昭和46年の軌道敷内通行不可措置により徐々に客足が戻りつつあるころでした。更に全国的には路面電車が次々と廃止されており、その廃止された日本各地の電車を広島に輸送し、市内で走らせたことで、全国的に路面電車の博物館として有名になったころでもありました。入社後まもなく、大学時代を過した京都の市電が15両入ってきたときには、ちょっとびっくりしたも
のでした。
全国の私鉄業界はどうだったかということですが、やはりモータリゼーションの進展による特にバスを中心とした乗客減に見舞われた地方中小私鉄と、人口の都市集中による鉄道を中心とした輸送力増強を図っていく大都市の私鉄大手との両極端に別れていました。とくに地方中小私鉄においては、ワンマン化を始め各種合理化の提案実施がなされ、労使関係も緊張し、度々ストライキを打ち抜くなど今では考えられない状況下にありました。そんな中で新入社員として業務課というバスの企画・申請部門に配属され、バスの基礎を学び、次に市内バスの現場営業所に一年、そして人事課2年・労務課で5年を過しました。
昭和62年の11月に電車部に行けという辞令を受け,それから約7年半の電車部生活が始まりました。電車部ではとにかく電車の運転免許がないと仕事にならないということになっていたらしく,辞令発令の日が運転免許証取得のための社内養成所に入所の日でした。それから6ヶ月間、学科・実技と訓練を受けまして、私を含めた6名が入所しましたが当時私は35歳、他は全て20代前半で、特に実技面でついていくのに苦労した覚えがあります。しかし何とか軌道線の運転免許・通称乙免を中国運輸局より交付していただき、晴れて電車部の仲間入りをすることが出来ました。
(会社及び電車の歴史)
ここで会社の歴史に少しだけ触れておきます。広島電瓦料或塙?臈典さ案擦????梁舂啻伴卍垢砲茲辰得瀘?気譴燭里?声43年で、それから土地買収を始め大正元年11月23日に軌道線の営業を開始しました。従いまして今年で開業93年を迎えることになります。大正6年には広島瓦斯と合併し,広島瓦斯電軌株式会社となりました。これは当時両社の資本が大林組で同系列であったことと、ガスの需要期は冬であり、電軌は逆の繁閑期を持っていたので、経営の安定をもたらすことも理由の一つだったようです。そして合併後25年間ガスと電鉄で発展してきた会社は、昭和17年4月に「時局の要請」による戦時経済統制に伴い、広島ガス株式会社と広島電鉄株式会社に分離し今日にいたっております。ガスさんとはいわば兄弟会社でして、現在でも健康保険組合は同一で広島ガス電鉄健康保険組合と名乗っております。また昭和15年には会社創立30周年記念事業として、「広島商業実践女学校」を開校しており、これが現在の鈴峰学園です。更に昭和17年には皆実町に「広島電鉄家政女学校」を開校しましたが、原爆により焼失し廃校となりました。
電車の歴史についてですが、主な点だけ触れておきます。大正元年11月23日営業開始(広島駅?相生橋、広島駅?紙屋町?御幸橋、八丁堀?白島、相生橋?己斐間は12月8日)し、宮島線の己斐?草津間が大正11年8月、現在の宮島口まで開通したのが昭和6年2月でした。また江波線は昭和19年6月、比治山線は19年12月に開通しましたが、江波線は三菱重工広島造船所への工員輸送、比治山線は広島駅から宇品港への兵員輸送が任務でありました。そして昭和20年8月6日原爆投下により壊滅的打撃を受けましたが、三日後の8月9日には己斐?西天満町間で運転を再開しております。なお当時被爆した電車650型4両は今も現役で市内を運行しております。その後、戦後の復興期を経て、「広島平和祈念都市建設法」の施行による道路整備に沿って市内電車の線路を道路の中央部に移設し、昭和25年から11年間かけて軌道移設は完了しました。
また昭和37年1月より、広島駅?廿日市間で市内区間と宮島線との乗り入れの直通運転を開始し、順次拡大して現在では広島駅?宮島口間で全時間帯で直通運転を行っております。また今年の8月29日からは直通電車の始発時間の繰り上げ、終発時間の延長を実施し、より利用しやすい電車ダイヤとなっております。
広島の路面電車の特色をあげて見ますと、一つは軌間が1.435mと広いこと。これは新幹線と同じ軌間です。他都市の路面電車は狭軌といいまして1.067mが多く、JRの在来線もこの幅です。次に路線が軌道19.0km、鉄道16.1kmと比較的長く線というより面的な広がりをもっていること。更に昭和46年の軌道敷内通行不可措置や、電車優先信号等行政の理解を得て走行環境が改善し、定時性・即達性が保たれていること。そして1日の利用客数が15.6万人と全国18都市の路面電車の中では一番多いことなどが挙げられます。
私も93年の歴史の中で直接的には7年半しか携わっていませんが、電車は広島市民の足として市民生活の様々なシーンで活躍していたと感じております。1月は宮島を中心とした初詣輸送、2?3月の沿線高校・大学の入学試験輸送、4月はプロ野球開幕・花見輸送、5月フラワーフェステイバル、6月とうかさん、7?8月は夏季輸送・花火大会・8/6輸送、9月は台風シーズンでの警戒、10月秋の修学旅行輸送、11月えびす講、12月には年末年始輸送と、一年・四季を通じて歳時記に欠かせない乗り物として電車はあり、これからもあり続けていきたいと考えており、努力してまいりたいと思っております。
(路面電車への再評価)
このように広島では、モータリゼーションによる危機も乗り越え、路面電車は市民の皆様の身近な足として今日までご利用いただいてきたわけですが、日本の他の都市では、戦後路面電車が次々と姿を消していきました。ところがここ数年、日本国内において、都市内の公共交通手段として路面電車が再評価されてきています。
この背景には、自動車に偏りがちな都市交通の問題点にいち早く着目し、路面電車が環境と人にやさしい交通手段であることに気付いた欧米の諸都市での取り組みが、都市交通のあり方に頭を悩ませる日本の都市にヒントを与えたものと思われます。その中にあって、今日にいたるまで主要な都市交通手段として活躍する広島の路面電車は、「路面電車を活用した街作り」の代表例として、他都市から注目を寄せていただいております。
皆さんもグリーンムーバーやグリーンムーバーmaxを街で見かけたり、実際に乗車されたことはおありでしょうか?グリーンムーバーは、平成11年よりドイツ・シーメンス社から購入した車両で計12編成運行しております。電停と社内の床に段差が全くなく、高齢者や車椅子を利用の方にも楽に乗り降りいただける「超低床」や、スムーズな加速・減速性能を特徴としています。またグリーンムーバーmaxは、この春初めて導入された「国産初」の超低床車両で、外国製のグリーンムーバーでは実現できなかった日本人の体格や使い勝手に合わせた、細やかな設計・配慮がなされています。このグリーンムーバーmaxは、今後も導入を続けていく予定です。
(路面電車からLRTへ)
しかし、広島の路面電車は、このような超低床車両の導入を進めるだけではありません。路面電車の持つ昔ながらの「チンチン電車」のイメージを払拭するような、新時代の都市交通としての姿「LRT」への発展を目指しているのです。
「LRT ライトレールトランジット」は、そのまま訳すのに相応しい言葉が見つかりにくいのですが、路面電車の機能を向上させ、人と都市にやさしい交通システムへと高めたものを指します。広島の路面電車をLRTへと進化させるプロセスはまだ始まったばかりです。この実現には乗客の方だけではなく、広く市民の方々、関係行政からのご理解・ご支援が不可欠です。これからの広島のまちにおいて、路面電車がより一層皆さんのお役に立ち、暮らしを支える交通手段として発展し続けられるよう、今後も努力をいたしてまいります。
以上