卓話時間
第1377例会
2008年06月09日 (月曜日)
- タイトル :
- リレー卓話 私の「座右の銘、好きな言葉」
- 卓話者 :
- 赤羽克秀、出崎邦彦、緒方俊平、古澤宰治、城川大二郎、土肥博雄君
ロータリアンなら誰でも「座右の銘」もしくは、自分の好きな言葉など、一つや二つは持っていると、雛壇を中心に本日はリレー卓話を行った。
私の座右の銘「玩物喪失」
赤羽克秀
私の座右の銘は「玩物喪失」という言葉である。まさに私にとって身近に備えて戒めとする格言である。
玩物喪失とは無用の物を愛玩して大切な物を失うという意味の言葉である。対義語としては虚心坦懐である。この言葉の出典は日中の「書経」であり、書経とは五経(易経、書経、詩経、礼記、春秋)のうちの1つで漢代に諸家の流伝をもとに復元編纂されたものであるが唐代の五経博二によって完成された物である。書経によれば「人を玩べば�を失い、物を玩べば志を喪う」と書かれており、まさに我々一人一人にリーダーとしての教えを説いたものである。
川や堀の方で人を玩べば確かに�を喪うでしょうし、私のように骨董金に冒されて物を玩んでいる物は志を失うおそれはあります。人にしても物にしても玩んで失うには�や志ばかりでなく確実に金も失います。合唱
「私の好きな言葉」 ―いつも心に太陽を―
緒方 俊平
大学卒業の頃、末川博学長より、言葉を贈られました。「いつも心に太陽を!」という言葉でした。
その頃は、その言葉がなんだか陳腐な感じがして、正直なところ、そんなに有難いとは思っていませんでした。
弁護士になって36年の月日が流れましたが、約20年ぐらい経た頃から、この言葉の発する光のようなものをしみじみと感じ始めました。人生の浮沈と喜怒哀楽を抱えて来訪する多くのクライアントの法律相談をこなしてきました。その人々と共に悩み、考え、ある時は失敗を、そして又、ある時は歓喜を体験してゆく生活が続いています。人生航路には、「幸せ」を計測する基準は無いように思います。唯一あるとすれば、明るい気持ちになれるのか否かです。そう考えた時、あっ!そうだ!「いつも心に太陽を!」だと気付いたのです。自分から明るい気持ちになれる努力をすること!自分から暖かい気持ちになれる努力をすること!そのためには、様々の手法があります。多くの宗教や、道徳律もそのようにして学べば、とても理解しやすくなりました。特に、密教の多くの仏典の中でも「理趣教」という仏典は、極めて難解ですが、私にとって太陽の心に近づくために役立ちました。
人生は物事にこだわらず、明るく楽しく味わうべきものですね。しかし、我々凡夫には、欲があるため、なかなかその心境になれませんね。自分が太陽を心に抱いていたかどうかを常に自分に問いかけながら反省に浸り、そして又起き上がる毎日です。これからも宜しく
「私の好きな言葉」 古澤宰治
私の好きな言葉は、自分のその時の状況や環境で、沢山の言葉が心に浮かんできます。しかし、常に心に留まっている言葉があります。それは、「人生我以外みな我が師」という言葉です。これは、20年以上前に、お寺を通り過ぎる時にふと目に焼きついた言葉です。意外と頑固な私は、いつもこの言葉を思い出し、これまで多くの人から様々なことを学んできたと思います。勿論、これからもですね。
実は、無学な私はこの言葉は仏教の教えの一つと思っていました。今回、この言葉を紹介するにあたって調べたところ、なんと、宮本武蔵の言葉であるとの説があるようです。ますます、この言葉が好きになりました。
「私の好きな言葉」-汗と夢-
城川大二郎
汗とは努力、夢とは目標です。簡単な言葉の組み合わせなのですが
それもそのはず、実は私が卒業した高校の校訓です。高校時代、体育館の正面に
飾られており、風景の一部でしかありませんでした。この言葉との本当の出会いは
体育の教育実習で母校に戻った時、放課後体育館でふとこの言葉が目に入りました。
努力はすればいいのではない、一生懸命がんばっても結果の出ないこともあります。
しっかりとした目標とそれに対して、正しいベクトルでの努力それが、達成感という
結果、それをやりきったものでしか味わうことの出来ないフィーリングを感じることが
出来る最善の方法だと思います。それが、人としてのスキルをあげていく要素のひとつ
だと考えます。事業や仕事も同様だと考えます。うまくいかない時、何が間違っている
のか、目標、目的が間違っていないか、行動が間違っていないか常に考えながら日々
過ごしています。汗と夢、この言葉は2つで一つの意味を持つものだと考えています。
「私の好きな言葉」-人間嫌い-
土肥博雄
私が人間嫌いと言うと、私を知る大抵の人が嘘だろう、と言います。
でも私は人間嫌いなのです。それに気づいたのは、比較的最近です。私自身兼も人付き合いは悪い方ではないと思っていましたから。
モットーとしているのは、絶対絶命のピンチの時にこそ素晴らしい解決策があり、さらに良くなる元がある、というものです。
平成11年12月私は日本造血細胞移植学会の会長を仰せつかっていました。この平成11年には広島で大きな学会が多数開かれ、田原先生ががん学会の会長を勤められたのもこの年でした。前年から準備し、夏に開いたプログラム委員会では特別講演にノーベル賞学者のDonnall Thomas 先生を初め5名の外国人講師を決めていました。
このThomas先生を招聘するには苦労しました。前年の暮れ面識の無いThomas先生にメイルしました。しかし帰って来た返事はNoでした。理由として12月は孫が来るし、とてもスケジュールが立て込んでいる、というものでした。しかしここで引っ込んでは会長の意地が立ちません。大和魂を発揮して再度メイルしました。日本には三顧の礼というものがあります、初めは断るのが礼儀、二回目も断って三度目に初めて受けるというものです、と書き送りました。そしてThomas先生が所長を勤めるフレッド・ハッチンソンがんセンターのHansen教授に電話しました。これも容易ではありません。此方の朝6時頃がシアトルの夕方です。やっと捕まえ電話で説明しました。それで俺は何をすれば良いのか聞いてきたので、土肥が呼んでいるので広島に行くと良くしてくれる、と言ってくれと頼みました。分かったとは言ったのですが、不安な日々を過ごすことになりました。私からすればあなたなんの爲に私が広島でふぐを何回も食べさせたの、と言いたいところです。
ある日メイルを開き私は歓喜しました。トーマスが広島に来ると言ってくれたのです。これでこの学会は80%は成功したも同然です。
平成11年は1999年です。心配された1999年7の月も無事過ぎました。その中でThomas先生が脳卒中で倒れたというニュースが入ってきたのは9月終わりのことでした。絶望しているとThomas先生の奥様よりお断りの手紙が届きました。アウチです。
ところが、これはとんだおまけ付きとなりました。9月30日に茨城県東海村のJCO臨界事故が発生し、その内2名が骨髄移植となったのです。これを目玉としてシンポジウムを組みました。結果としてこのシンポジウムが一番大きな反響を呼ぶことになりました。
もう一つピンチが訪れたのは来週から学会が始まるという時の水曜日でした。私のメイルにGirald先生からビザが下りそうにない、とのことです。向こうは本国から何か働き掛けは出来ないか、というものです。これは一大事。Girald先生は特別講演のもう一つの目玉でした。何故ビザが出ないのか?彼はヴェネズエラ人だったのです。東京で会っているし問題無いと思っていましたが、彼がwifeを同伴で来るので問題となったのです。
ここで落ち着けと言い聞かせて善後策を考えました。そして最高の解決策が見えたのです。
私は1997年北米被爆者健診の団長としてハワイを訪れました。総領事の公邸で夕食を共にし、空いている日の午後総領事とゴルフをしたのです。あのワイアライゴルフ場です。その時の天江総領事が外務省本庁の中東アジア局長になっていることを新聞で知っていました。また大和魂を発揮して、電話してみました。朝早く局長は未だ出勤しておりません、とのこと。外来で診察中、外務省からお電話で御座います。大急ぎで部長室のある4階まで駆け上がり電話をとりました。天江局長も私を覚えておいてくれました。ゴルフをした甲斐が在ったとおもいました。訳を話すと北米局から電話させます。また下へ戻り外来をしていると再び外務省からお電話で御座います。訳を話したところ、理解できるので、月曜日にはビザを出させます。正に最後の最後まではらはらしどうしでした。
私は人間嫌いですが人に縁があると思っています。多くの方々に助けてもらっているのです。これからも皆さまにお世話になることと存じますが、今後とも宜しくお願い致します。