卓話時間
第1708例会
2016年05月23日 (月曜日)
- タイトル :
- アフリカ子供支援「きららプロジェクト」
- 卓話者 :
- きららプロジェクト 相原功志氏
「アフリカで愛に生きる」 相原功志
アフリカでこども支援・コミュニティー支援活動をしています、相原功志と申します。
1972年(昭和47年)に埼玉県で生まれ、少年時代よりずっと、広島カープを応援しています。偏差値教育、学歴社会がピークを迎えていた80年代、私も猛勉強して、埼玉県でいちばんの進学校(県立浦和高校)に入学しました。しかし、高校に入って間もなく、何のために勉強し、何のために生きるのかと、自問自答するようになりました。そんな折、当時のエチオピア飢餓難民のやせ細った男の子の写真が目に留まり、心動かされ、「将来はこの子を救いにアフリカに行く」と強く思ったのが今現在の活動の原点です。後の日にキリスト教の信仰を持ち、クリスチャンとなったのも、この時期に触れた多様な価値観があったからです。そんな折に、国際ロータリークラブの交換留学生として、フィンランドで1年間を過ごすという貴重な経験をすることができました。それに始まり、新潟大学医学部の在籍中に重ねた海外旅行などの異文化経験が、今現在の活動に大いに活かされています。新潟大学の医学部を卒業し、小児科での研修をした後、医師としては未熟なうちにアフリカに渡り、現在に至っています。後悔はしていません。若い時に行動に移したからこそ今現在の活動があるのだと実感し、むしろ感謝しています。
妻はケニア人のジャシンタという女性です。庶民の家庭に生まれ、貧しいながらも学校を出て、幼稚園教師などをしていました。2人の娘は望(6歳)および光(4歳)です。新幹線ではなく、聖書から取った名前です。
生活と活動の場所は、ケニア共和国のナマンガという、首都ナイロビの南方170㎞、人口は約5万人、タンザニアとの国境の田舎町です。そこで、私たちは、CBO(Community Based Organization)というコミュニティー組織をつくったうえで、2004年、園児15人のキラキラ保育園を開園させました。
アフリカは、長年植民地支配を受けてきたために、外国人に対するアレルギーがありました。また、長年先進国からの支援を受け続けてきたために、援助慣れしてしまっていました。それで、たった15人の保育園という小さな支援事業を始めた日本人の私は、だいぶバカにされ、罵倒され、逆人種差別を受け、石を投げつけられたりもしました。
しかし、徐々に私たちの取り組みが評価され、尊敬と感謝と期待とを集めるようになっていき、2010年以降は100人規模の保育園として順調に経過しています。他に、土曜補習教室、特別児童支援、マサイビーズのアクセサリーの購入・販売などの事業を続けつつ、2年前にキラキラ小学校を開校させ、現在は1・2・3年生150人を抱えています。小学校の敷地は街から6㎞離れており、交通事故や凶悪犯罪などからこどもたちを守るために、通学用のスクールバスが必要です。そして、毎年学年を増やしていくために、教室などの建設を進めています。教室1つつくるのに、節約しても50万円くらいかかります。ちなみに、日々の給食は、保育園が1人1日15円、小学校が1人1日18円ほどでやり繰りしています。
また、マイクロファイナンスという、小規模金融事業も始めました。100円からの預貯金、1000円からのローンが可能であり、貧しい庶民が小さなビジネスを起こすための拠り所になっています。このように、キラキラも、コミュニティーの人たちも、支援に頼らずに自立していく道を模索しています。
前世紀のアフリカは、1人当たりのGNPが伸びず、貧困と低迷が続いていました。今世紀に入ってからの急激な経済成長により、ある程度庶民の暮らし向きは良くなってきたのですが、億万長者が増え、貧富の差が増し、労働時間も伸び、夫婦共稼ぎが主流となり、物価も高騰して生活苦もストレスも増しています。人々は金銭欲にまみれ、汚職、贈収賄、横領、その他種々の不正行為が横行しています。とくに土地問題が深刻です。偽造文書の作成や証拠隠滅などの不正行為が横行し、土地の奪い合いや紛争が繰り広げられています。私たちキラキラ小学校の土地も、この土地略奪の脅威にさらされています。しかも、こうした不正行為を先導しているのは、教育を受けてきた地元の有力者、すなわち、政治家、公務員、教会の牧師などなのです。彼らの受けてきた貴重な教育による知識と知恵とが、こうした不正行為の道具と化しているのです。
今こそ、愛のある保育・教育が必要です。たとえどんなに大金を使って理想的な支援活動を展開させても、たとえどんなに高い教育を施しても、愛がなければ意味がありません。愛のある保育・教育を提供することで、不正行為をせずに、国に貢献して他人を助けることができるような人材が育っていくのでしょう。ケニアでこれからも愛を十分に注ぐことができるよう、日本で愛を十分に注いでいただいたうえで、またケニアに戻れたらと願っています。