卓話時間
第1612例会
2014年01月27日 (月曜日)
- タイトル :
- 新会員卓話「自己紹介」
- 卓話者 :
- 山野井秀樹君
1972年9月23日秋分の日に父暁(たかし)・母和恵(かずえ)の長男として生まれました。現在は、妻と3人の娘と生まれ育った地元に住んでおります。
私は、生まれてから高校を卒業するまで、旧佐伯郡佐伯町で育ちましたが、周りには、遊ぶところといえば、自然しかないようなところで、毎日勉強もせず、1日中、外で遊び回る子供時代でした。
おかげで、足が速く小学校から高校までずっと選手リレーに選ばれるほどでした。
家族の話ですが、父は、1週間のうちに顔を合わせるのは、ほぼ寝顔のみ。起きている父と話すのは、週末にゴルフに出かける前でした。父は帰ったかと思うと、その足で麻雀や夜の街に出かけるような父でした。
そんな姿を見ていたせいか、父親というのは、家にはほとんどいないのが当たり前の人なのだと子供心に思っていました。
私が小学校時代には、母は、毎朝牛乳配達の仕事をしており、私も毎朝起きて近所の牛乳配達をしておりました。
私には、1つ上に姉がいますが、姉は、小学校の時から高校を卒業するまで競泳の選手として頑張っておりました。そのおかげで、私は、ほぼ毎日家で留守番をする為、その当時の趣味は、一人でも出来るプラモデルの作成にハマっていました。学校の教科書など読むわけでもなく、私の教材といえば、プラモデルの組立説明書でした。今思うと、プラモデルを作るのと同じくらい、本を読んでいたらもう少し、頭も良くなっていたかなと思います。
そういった、小学校時代を過ごしていましたので、あまり外で人と触れ合うのが得意な方ではなく家族で出かける時も、大体一人、家で留守番をしておりました。
中学校に入ると、陸上部・サッカー部に所属しましたが、これといって特化するわけでもなく、3年間を終える事になりました。
高校も地元の高校に進学し、特に変わったこともなく、ただただ3年を過ごしましたが、高校卒業を前に進路を決めなくてはいけないという事になり、父と母に大学受験をしてみたいと告げ、学校に行き先生に大学受験をすると申し出たところ、先生からは、お前が大学受験?受かるわけない!!とはっきり言われましたが、受験するのは、私の自由でしょと言って、無理やり願書を申請しましたが、やはり、全てに失敗。
大学受験に行った時ちょうど、目の前で専門学校の入学試験案内を配っていたものを持って帰り、母が、ここの専門学校は、4年制で試験もないみたいだから、面接に行ってみたらと言うので、神戸まで面接に行きました。すると見事に合格。今思えば、誰が行っても受かるような学校です。
そこで4年間、初めて生まれ育った町から離れることの不安ばかりでしたが、入学を終えると同時に世の中には色々な人がいるというのを知りました。学校に入るとイベントサークルを立ち上げようと友人に誘われ、右も左もわからないままにそのサークルの副代表になっていました。そうなると、もう学校で勉強どころではありません。起きるのは午後5時、寝るのは、朝7時と昼夜逆転で神戸の街で遊んでいました。まだまだバブル絶頂期で過ごしておりましたが、いよいよ、4年を迎え、就職という時にバブル崩壊というニュースが世間を漂っておりました。
バブルが何なのかもわかっていない、そんな若造ですので、就職活動たるものどんなものかわからないまま、父に津田運送の大阪営業所に就職させて欲しいとお願いしました。父は、なんでや?と言いましたが、小さい頃から父の会社に出入りしていた関係もあり、小学生の頃から、従業員のみんなから、社長は、片足を無くしても頑張り屋で津田運送のことはなんでも知っているし、ワシらの事をよく解ってくれている。そんな、人の息子だからといって、お前を未来の社長だとは、ワシらは認めんし、お前には絶対に無理だ!!と幼心に言われた事をずっと忘れることが出来ず、やるからには、最終最後末端の仕事からすべて覚えてみたいと申し出て、大阪営業所に配属して頂きました。
当時の大阪営業所のメンバーは、個性の強い集団の集まりでしたので、何か仕事の段取りを変えようとしても、お前は、社長の息子だからヤレと言うのかという目で見られておりました。その時に父はどうしていたのかと勝手に考え、どうせ、社長の息子でやって当たり前、やらなくても当たり前と思われているのなら、人に出来ないことは自分でやってやろうと思い、早朝4時から深夜12時まで2ヶ月間頑張っていましたが、さすがにこのままでは、誰がやっても持たないと考え、一人ひとり、話をしてコミュニケーションをとった結果、一緒に仕事をしていた半数以上の人が理解してくれてスムーズに仕事が出来るようになった時は、本当に嬉しかったです。
大阪の経験を活かし、広島に帰ることになりましたが、やはり同じように現場からの経験を大事にしたいという事から、すべての取引先の仕事をさせて頂きました。そのおかげで、会社の仕事に関しては、自分で把握できない事はない所まで今は来ています。
ただ、父は、心配していた事があったようです。それは、私には、会社関係、仕事関係以外の友達がほとんど居ないと言う事でした。29歳の時に広島青年会議所にお誘いいただく機会がありました。私は、社交的な性格ではないので入会を拒否しておりましたが、私を誘ってくださった方から、親父さんから、秀樹に良い仲間と友達を作って欲しいと言われたと、半ば強制的に広島青年会議所に入会することになりました。
4月から広島青年会議所入会の研修が始まり、7月の正式入会となるのですが、やめるタイミングばかり考えて過ごしておりました。会社からお金を出して頂いているし、逃げるのも嫌だしと、のらりくらり過ごしていましたが、転機が来ました。
それは、2002年10月18日の父の突然の他界です。
それまで、私の支えで味方であった父を亡くし、どうしたらいいのかと思っていました。当然、青年会議所も退会し、仕事をしようと思っておりました。
私は、会社の仕事は大体わかると言いましたが、財務の事は、一切知らされず、父が他界した後、緒方先生の所で色々相談した時、秀樹お前は、何にも知らんのじゃの?といって励まされたことを今でもはっきりと覚えています。
それからは、税理士、銀行1日2往復する日もありながら、会社の財務の事を勉強しました。そんな事をしているうちに、青年会議所の活動で同期入会のメンバーが、いろいろな局面で助けてくれていた事に気づく事があり、これからは、自分に出来ることは、NOと言わずに喜んでやっていこうと決めました。
そう決めた時から、いろいろな局面で無理なお願いや出来るかなと思うような事に関してもお声をかけて頂き、一人でどうしようかと考えながら、最後は、よしやるぞと決めて会社と家で報告会しておりました。
そうしていたところ最後には、広島青年会議所で理事長を経験させて頂く事になりました。
周りのみんなには、すごいとか、頑張っているね。とか青年会議所が好きなんですね。
など、いろいろ言われましたが、私は、青年会議所という組織よりも、そこに居る一人ひとりと繋がりを持ちたいという事で大役を務める事ができたと思っております。
青年会議所を卒業した時に、父が教えたかったのは、こういう事だったのかなと気づく事ができました。
これからは、広島中央ロータリーで人と人のつながりを大切にしていきたいと思います。
このロータリーに入る前から緒方先生・橋本さん・村本さんをはじめ、多くの方に可愛がって頂いております。これからも、出来ることは、率先して、これまでやってきた事に自信を持って、仕事にロータリー活動そして、家庭の為に頑張っていこうと思います。
最後になりますが、私が青年会議所時代から熱心にお誘いいただきました皆様に感謝申し上げ、拙い自己紹介の卓話を終わらせて頂きます。