卓話時間
第1528例会
2012年01月30日 (月曜日)
- タイトル :
- 『広島の街にひそむ城下町の痕跡』
- 卓話者 :
- (財)広島市未来都市創造財団
広島城学芸員 玉置和弘氏
はじめに
近年、昔の地図を片手に街歩きを行うことが流行っています。NHKで放送されている「ブラタモリ」も昔の絵図などを片手に、毎回様々な場所を徘徊してそこに秘められた歴史を解明しています。
今回の話は、私たちが住んでいる広島、それも普段何気なく通っている広島の街の中心部の様々な部分に埋もれた城下町の歴史を見ていこうというものです。
広島の街は、天正17年(1589)毛利輝元の広島城築城開始と並行して造られた城下町に端を発し、福島正則による再編や浅野家12代による発展の後、近代の都市改造、原爆とその後の復興を経て現在に至っています。このように広島の街は、広島城築城以来の都市づくりを基盤として少しずつ形成されていったため、城下町以降の街の発展に連続性が見られます。
しかし、原爆による未曾有の被害により街が壊滅したイメージが強すぎるため、他の都市と比べて江戸時代の痕跡が少ないと誤解されがちです。確かに建造物などの文化財は中心部には残されていませんが、街の区画や道路などについては、戦後大がかりな都市改造がそれほど多くなかったこともあり、逆に意外と昔の街の区画・道路などが残されています。ただ、昔の建物やモニュメントが建っているわけではないので、普段通っていても、何気なく通っているところばかりです。今回、タイトルに込められた街に「ひそむ」痕跡を歴史というフィルターを通して掘り起こす「昔トラベル」に出発しましょう。
1 ふしぎな道には歴史がある! 広島城下町の名残
まずは、平和記念公園西側の太田川(本川)にかかる本川橋西詰の交差点を見てみましょう。写真1は東側(橋上)から西側に向いて撮影していますが、見ておわかりのとおり、前方へ続く道が一直線ではありません。これは、江戸時代にあえて道をまっすぐに作らず、途中に鍵状に曲げた道の名残です。広島に限らず、城下町には、外部からの侵入者を防御する目的などのため、道が鍵状のものがいくつかあります。モータリゼーションの時代にはそぐわないため、現在はこのようなズレはあまり残されていません。ただし、現在の鍵状の箇所は戦後に本川橋西詰の南北の道路(写真1の左右に通る道路)が造られた時に、江戸時代の絵図(広島城下町絵図・写真2)の矢印にあった鍵状の場所が東側に移ったのです。
一方、平和記念公園を写真1の本川橋から元安橋を東西に貫く道路のちょうど真ん中あたりを見てみましょう。写真3は左手にレストハウス、右手奥に原爆の子の像(折鶴の碑)を見渡し、東から西側を撮影していますが、前方の道がS字カーブになっています。実はこちらも絵図(写真2)にあるとおり、江戸時代には元々は鍵状のものでした。
この場所の場合、そのままにしておくと車の円滑な通行の妨げになりますので、戦後に平和記念公園を整備するのにあわせて、鍵状の部分を直して、現在のように曲線の道に変わってしまいました。
次に見るのは本通商店街の東端、広島パルコ本館付近です。ここでは、北に金座街、南に並木通りと南北に道がありますが、一直線ではありません。不思議に思いますが、これには歴史がひそんでいます。まず並木通りですが、江戸時代初期の絵図(寛永年間広島城下図・写真4)に見られるように、広島城東の外堀(八丁堀)から続く位置にあり、平田屋川と呼ばれる運河で築城期には物資運搬に使用されました。
平田屋川は、本通りから南側は戦後まで存在しましたが、後に埋め立てられて並木通りとなりました。一方、金座街ですが、もともと平田屋川の東側にあった通りがルーツになっています。そのため、一直線にはならないわけです。ちなみに、本通りから北側の平田屋川ですが、金座街の西側の建物部分がかつて平田屋川だった部分となるわけです。ここは江戸時代の終わりには既に埋め立てられています。平田屋川にかかっていた中の棚橋の跡は、近年発掘され、現在、金座街のやや西側の中の棚にモニュメントが残されています(写真5・金座街から西に向かって撮影)。金座街と並木通りがずれているのは、道の成り立ちが異なるからなのです。
2 ふしぎな町割には歴史がある!
現在の地図を手元にして、前述した旧平田屋川を境に東西の道のつながりを比べてみましょう。今でも道が一直線になっていない箇所があることにお気づきでしょうか。例えば福屋八丁堀店南側の「えびす通り」は金座街で行き止まり、西側へは貫通しません。逆に写真5の「中の棚」の通りは、金座街で行き止まり、東側へは貫通しません。現在これらの道の様子は、江戸時代初期の景観を描いた寛永年間広島城下図(写真4)の様子と同じです。また、より古い広島城築城の毛利時代の絵図でも、川を挟んで同じような現象が見られます。広島はきれいな碁盤の目になっていると思われがちですが、当初町割を行った折の街のプランニングが異なっていたことが、現在まで続いているのです。
この他、ふしぎな町割が市内の様々なところに存在します。広島城下町は基本的に碁盤の目なのですが、薬研堀・平塚町・弥生町付近の町割は、少し方向が異なります。城下町の町割とは異なる性質の町が存在したことを示しています。
3 広島城の堀の跡に歴史を見る
現在の相生通りは、かつては広島城の南側の外堀で、明治時代末期に埋め立てられて路面電車が通ったことはよく知られています。この南側の外堀及び城下町の東西の道は、江戸時代の絵図では平行に描かれていますが、現在の相生通りは現在の本通り(旧西国街道)を含めた東西の道とは一見平行に見えますが、精細な地図で確認すると平行ではありません。それは、戦後に旧相生通りを拡張したときに、元の道路と異なる角度で拡張したため平行ではなくなったのです。その証拠に、紙屋町の発掘調査において現在の相生通りと平行ではない方向に並んだ江戸時代の石垣が発掘されました。紙屋町の遺跡は見ることができませんが、角度が曲った名残とも言うべきものが、八丁堀に残されています。福屋八丁堀本店です。この福屋の建物、道路に対して曲っていますが、図解にあるとおり、①江戸時代から明治末まで堀があった②その後堀が埋め立てられた後に大正元年(1912)路面電車が通り、昭和13年(1938)に福屋八丁堀店(当時福屋新館)も完成しました。③戦後、電車通りが拡張したときに東西の道路の軸線がかわり、被爆建物である福屋が取り残された、という流れを辿ります(右の図のとおり)。
また、金座街から北へ延びる道路(バス通り)は、かつては広島城の東側の外堀(八丁堀)で、明治時代末期に埋め立てられて堀の跡に路面電車が通ったとよく言われています(現在の路面電車白島線は戦後に移築)。しかし、現実には寛永年間広島城下図(写真4)にあるとおり、金座街の延長線上にバス通りがあり、平田屋川の延長線上に東側の外堀(八丁堀)がありますので、東側外堀の跡はバス通り西側、つまりビル街になっていると考えざるを得ません。その証拠として、現在の地図を見てみると、バス通り西側のビル群の多くの奥行きが元堀(約18m幅)にスッポリと当てはまるのです。意外な所に堀の痕跡は残っているのです。
4 今に残る江戸時代の海岸線をたどる
江戸時代は、新開とよばれる干拓が進んだ時代で、広島の街は南側へ広がっていきました。干拓による海岸線の跡は、市内の様々な所に見ることができます。中区南千田町付近には、今では完全に陸地になっていますが、船舶の航行に必要な常夜灯が残され、屈曲した道にかつて土手のあったことを偲ぶことができます(写真6)。また、南区皆実町・翠町と宇品地区の境には、「桜土手」と呼ばれた箇所があり、ここでは屈曲した形の他、周囲より高くなっていることが現地にいくとよく分かります。そのほか、中区吉島地区をはじめ旧市内には海岸線の痕跡が沢山残されています。
5.残っている旧町名がある! 街中で見ることのできる旧町名
城下町では、当時の町人町の名称にノスタルジックなイメージを抱きますが、広島市の町名にも「紙屋町」「鉄砲町」といった江戸時代の町人町を彷彿とさせる町名が存在する一方、昭和40年の町名変更によって城下町にルーツを持つ町名の多くが消えて行きました。しかし、街を歩いていると、消えた町名の痕跡を見つけることができます。例えば「ビルの名称」「神社などの石柱」などには昔の町名が残っています。なかでも複数あって興味深いのが電柱です。旧市内の幾つかの電柱を眺めていると、写真7にあるような町名に出くわすことがあります。町めぐりの余興として、探してみてはいかがでしょう。
この他、町名ではありませんが、「八丁堀」「京口門」「鷹野橋」「中の棚(真ん中の店の意味・当時あった魚屋町の中央にあったから)」といった城下町にゆかりのある名称も数々残されていることは、広島が城下町であったことを物語っています。
おわりに
広島の城や町は、ひとときに形成されたものではありません。四百年を超える年月をかけて先人達が少しずつ築いてきたものが、私たちが住む広島なのです。こうした発見、ふしぎは現在の街をじっくり見つめることからスタートします。今回は主に城下町の痕跡という視点でしたが、近代・現代の痕跡なども合わせながら、現在の町や現在の地図を凝視すれば、必ず往時の痕跡を見つけることができます。今回紹介したものはほんの一例です。歴史を見つめながら、町を歩いてみると面白い発見があると思います。