卓話時間
第1361例会
2008年01月21日 (月曜日)
- タイトル :
- 会員卓話
「年男大いに語る-2」
- 卓話者 :
- 増原重巳君・吉川惠君・赤羽克秀君・福田浩君
新年おめでとうございます。
本年は戊子(つちのえね)といい、干支の組み合わせでは25番目の年です。
戊子の年は西暦年を60で割って28が余る年です。子年の子は勿論、十二支の1つで鼠のことですが、鼠は大国主命を救ったことによって後生大黒天の使いとして大黒の図に描かれる場合以外は奸悪の代表のような動物である。十二支の第一番目に位するのも大国主命を救ったことにその由来があるそうです。
また子は方向で北を指し、反対の午(うま)と結んで経線を作り、英国グリニッチ天文台を通るモノを子午線零度とし、これを東経の基線としています。
私は60年前の戊子年、つまり1948年に生まれ今年は還暦ですが、丁度私の生まれ年の干支が一周したことをしめしています。昔は還暦を迎える程の年をとると「赤ちゃん」に還るという意味から、赤ちゃん→赤子→赤という流れで赤い衣類を送って祝う週間がでてきたようです。一口に還暦と60歳と申しましても、私は昭和23年生まれ、そのもうひとつ前の還暦は188年、明治21年であり、画家の梅原龍三郎、作家の菊池寛が生まれた年です。人間は還暦を2回経験するのは現代の医学をもってしても困難なようです。
しかし、わずか還暦7回前は1588年、天成16年、秀吉による刀狩りが行われた年であり、信長が本能寺の変(1582)で殺されてから6年後、改めて歴史をふまえながら還暦の意味を考えたしだいであります。
本年も宜しくお願い申し上げます。
30年を振り返って
私は昭和11年の子年生まれですが、当クラブには田原会員と栗栖会員と私の3人が同年生まれで、同一クラブに3人在籍は私から見れば珍しいのではないかと思っています。
広島中央RCの在籍30年目の年に年男ということで思い出を少々お話させていただきます。
広島中央RCは昭和53年、観音本町にある医師会館で認証伝達式が行われ、そのとき42歳、家内と一緒に晴れ姿で参加させていただいたことがつい最近のように思われます。その後、例会場は広島そごうでしたが、来場者、メークアップをされる方が場所柄と新クラブの珍しさも多分にあり、当時親睦委員会を担当していました私とS.A.Aの高重会員は会場のスペースと来場者の多さに困惑をした思い出がありますが、楽しかった一時期です。その後、クラブ会場も変更になり現在に至っております。30年の思い出はまだまだありますが、クラブも私も年とともに変化をしています。活力、体力、気力が衰えてくると何を行っても中途半端になりがちです。クラブ会員の皆様が何時までも活力ある人生であり、広島中央RCが元気で活力のあるクラブであることを願っています。
還暦を迎えてふりかえったこと
私は今年3月23日、60歳還暦を迎えます。昨年の暮、岩国から安佐北区亀山に引っ越しをしました。その時荷物を整理していましたら、真空管が出てきました。これは、昔私の宝物でした。
今日はそのころに帰って、瞳が輝いていた中学校時代の話をさせていただきます。
私は小学校6年生のころ直流モータを作った時からなぜか電気に取りつかれはじめました。その後、鉱石ラジオ、ゲルマニウムラジオなどにはまった後、真空管ラジオに興味を持つようになりました。近所でラジオが壊れたことを聞きつけてはもらい歩きました。そのラジオから部品を集め、今度は短波受信機を作りました。短波を受信すると、そこにはアマチュア無線で通信を楽しんでいる人たちの声が聞こえてきました。それからはこのアマチュア無線に取りつかれてゆきました。中学生では珍しいころでしたが、アマチュア無線の免許を取り、裏山から家の屋根まで40mのアンテナを建て、無線機を作って3.5MHz、7MHzで「ハローCQ、CQ」と通信を楽しみました。
こんなことがありました。小さな弱い電波を発信しますので、遠くの人と交信しようと思うとまだみんなが起きていない朝早く電波を出します。朝は東から明けてきますのでそうすれば
混信なく北海道や東北の人たちと楽しく交信ができました。また、福王子山へ仲間たちと無線機を担いで登り、アンテナを建てて全国の人たちと交信を楽しみました。
こんなこともありました。昔は家の縁側の下には鶏を飼っていました。更新中、その鶏の「コー、コケッコー」という声がマイクに入り、「のどかですね」という声が返ってきたりしました。
交信で知り合った無線仲間を訪ねたこともありました。今の広島市民球場あたりには小さなたくさんの密集した住居がありました。その中にも無線機を家の中に積み上げて無線交信を楽しむ人もいて、ここにも仲間がいたと喜んだりした思い出があります。
今の時代は何でもほしいものは店に買いに行ったら手に入ります。でもその当時は短波受信機も短波送信機も売られていませんでした。岩国や広島にあるジャンクセンターから部品をあさって歩き、回路図を手に入れて装置を作っていました。とにかく見つけてきた部品を工夫して使い、どうにか装置を完成させていました。
今回の引っ越しで昔の楽しい思い出がよみがえった正月でした。
本年もどうぞよろしくお願いします。
年男、おおいに語る。
正直申しまして、「年男」と言われても、ピンと来ませんでした。
まず、思い浮かんだのは、例年、節分の日、マスコミで報道される、有名人が境内で豆まきをする姿です。
私は有名人ではありませんし、自宅で豆まきをするくらいしか予定がありませんので、関係がないのかもしれません。
もともとは、「新年を迎えるための清掃や飾り付け、水くみなどをする男」という意味だそうです。
掃除機をかけることはありますが、「水くみ」の意味を知らない私には、やはり関係がないのかもしれません。けれども、竹は、節があるから、あのように、天に向かってまっすぐ成長できるそうです。
「年男」という節目に、今までの生き方を振り返り、これからの人生を考えてみることは大切かもしれません。
私は、いままで、どちらかというと、風にふかれる柳のように、そのとき、そのときの自分に正直に生きてきました。
歌のさびでは、美空ひばりの「川の流れのように、穏やかに、この身をまかせていたい。」が大好きです。
しかし、このままでは、居心地のよいたこ壺に入って、出てこられず、やがて死んでしまう蛸にもなりかねません。
そこで、次の「年男」を迎えるまでの、私の「たこ壺」脱出計画をみなさまにお話ししたいと思います。
まず、本業では、「企業の応援団」となることです。
企業も、自然人と同じく、誕生して、成長期・壮年期を経て、消滅してゆきますが、現実、どうしても消滅の段階でのお手伝いが多くなります。しかし、本来であれば、起業の支援、予防法務、コンプライアンスなどの分野で、企業の一生を通じて、お手伝いすることができるはずです。
現在も、一部進めてはいますが、今後、「企業の応援団」となる取り組みを積極的に実現・推進してゆきたいと考えています。
また、ロータリークラブでは、「実質的な貢献」をすることです。入会させていただいて1年になりましたが、現在のところ、例会への100パーセント出席、各種企画への積極参加は果たしておりますが、クラブへの貢献は不十分です。
ただ、どのように貢献できるのか、まだまだ、よく分かっていないのが正直なところです。そこで、クラブに対する勉強を深めるとともに、次の年男までには、クラブでの一定の役割を全うすることを通じて、クラブへの実質的な貢献をしたいと考えています。
以上のように、今後の決意をみなさまにお話しすることで、実は、自分自身の退路を断つこともできたと思います。
ご清聴、有難うございました。
以上