卓話時間
第1441例会
2010年01月04日 (月曜日)
- タイトル :
- 新春の会長挨拶
- 卓話者 :
- 迫田勝明君
闌位の芸
皆さんましておめでとうございます。皆様におかれましては、年末年始の休みを楽しくお過ごしになったことと存じます。
今日は、お前に三十分やるからなにか言ってみろ、ということでありますから、一年の計は元旦にあり、私が最近感じていることを述べてみたいと思います。
昔から、「年年歳歳花相似たり、年年歳歳人同じからず」といいます。実は、この詩は、劉庭芝という人の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代わって)と題する詩の一節です。詩の内容は、今が人生の盛りの若い人々よ、どうか年老いた白髪頭の老人を哀れんでくれたまえ。そういう老人は本当に気の毒だ。だが老人だって、その昔は紅顔の美少年だった。かぐわしい木下であそび、歌や踊りを楽しんだ。だが人生は移ろいやすく、そんなときは長く続かない。ひとたび病に倒れてからは遊び友達も寄り付かなくなり、そんな春の楽しみもどこか行ってしまった、という内容で、この詩は、人生の若い華やかな日々と対比しながら、老いることの悲しみをうたったものであります。
たしかに、人生とはそういうものであるに違いありません。一年や二年ではそれほど変化は目立たないかもしれませんが、十年もすればかなり変わり、三十年もたてばすっかり変わってしまうのであります。
私自身も、霜鬢明朝また一年、白くなった鬢の毛はまた一つ年を重ねるのであります。
だが、そのことは、本人にしてみれば、中々受け入れがたいものでありまして、私は、五十九歳のとき、同門会で、還暦のお祝いをしますといわれて、「還暦は満六十歳になってするものだ、おれはまだ五十九歳で六十歳ではない」とはぶてて、お祝いを受けとることを拒否したことがありましたが、昨年、楽天の野村監督が、クライマックスシリーズの前に監督の解雇を通告され、中々それを受け入れることが出来ず、俺は解雇された、解雇された、と言いふらしている場面をテレビで見て、私は六十歳前後の自分を思い出したのであります。
私は、あの場面を見て、楽天の三木谷社長からすれば、楽天という近代的な会社を経営する場合、大きな会社の中では一部長の立場である監督は定期的に交代させるのが当然であるし、何も七十五歳の監督に高い給料を払うことは無く、出来るだけ若くて、安い給料でやってくれる監督を雇えば、会社の経営はうまくいくという社長として当然、かつ当たり前の考え方で解雇を通告したと思います。
しかし、彼はプロ野球のチームの背後にはフアンという存在があることを一寸忘れていたし、通告のタイミングももう少し考えたほうが良かったのではないかと思います。
一方、野村監督も、年を取れば誰でもいずれは現役を引退して老後の生活に入っていくんだという感覚に乏しかったのではないかと思いますし、チームを強くしてくれとの懇請にたして、楽天を二位にした功績があるという自負心と、自分とほぼ同じくらいの実績の長島、王は終身名誉監督なのになんで俺は解雇なのだ、恥をかかされた、という感覚をもたれたのではないでしょうか。
米国の女性人類学者ベネディクトは、著書「菊と刀」で日本文化の特質を「恥の文化」と指摘しました。日本にはそうした恥の文化ともいうべきものが、共感として社会に浸透していて、それが生活の基盤に生きていると言いました。確かに「世間体」という規範は、我々の行動の中に現れてくるものだと思います。
しかし、この場合、いずれにしても人の上に立つ者にとって、絶対に不可欠なものが、「誠」であろうと思います。孔子は「誠はものの終始なり。誠ならざれば物なし」と「誠」を尊んでいます。私はこの「誠」とは何かと考えてみますと、一つは「相手に分かる言葉で説く」ということではないかと考えています。自分の良心や信念に自信があれば、難解な言葉で相手を煙に巻いたり、居丈高(いたけだか)な態度をとることはありません。相手に理解してもらうまで、言葉を積み重ねればよいのではないかと思うのであります。
話は変わりますが、私が子供のころ母親にいつも言われていた言葉は「嘘をつくなよ、嘘をついたら閻魔さんにべろを抜かれるよ」ということでした。大変恐ろしく感じたものでした。母親も世の中にいない閻魔さんという嘘をつきながら、嘘をつくなといっていた訳であります。
同じ状態は今も続いているわけでして、このロータリーでも、何時も「真実かどうか」と問われますと、私は恐れを感じるわけであります。
この世の中は、ある意味で、嘘をつくことは常態化していて、嘘つくことを生業にしている人もあるわけです。
例えば、小説家でありますが、小説というのは自由奔放に自分の考えていることを、感じているまま書けば小説になるかというと、それはまったくそうではないのでありまして、しかも、その中身は、実際に自分が体験していないことでも、あたかも体験したように書くわけですから、体験に比べれば、是は嘘になるわけです。
小説を読む方も、それをいちいち嘘であると意識して読んでいるわけではありません。あたかも本当であるかのように、主人公と同一の存在となって読んでいるわけです。そこでは、感覚や感情、感性というものを通して嘘が味わわれているわけですが、味わわれる嘘が読んでいる人に十分に納得されない限り、嘘は嘘のまま終わってしまうのではないかと思います。
つまり、嘘が本当らしくないということになります。別の言葉でいえば、作品にリアリティがないと感じられてしまうのです。つまり、中身のある嘘、手ごたえのある嘘でないとただの嘘になってしまい、嘘が嘘として自立しないのであります。
自分が「嘘だ、嘘だ」と思っていながらついている嘘は大抵ばれてしまうのです。本人もどちらか分からなくなってしまったときの嘘が、迫力ある嘘になるのではないでしょうか。嘘をつくときには本当に一生懸命嘘をつかなければいけない、ということになります。
画家も同じで、見たものをそのまま描いたのでは、皆が素晴らしいと感じる絵にはならないわけで、モナリザの背景にも嘘がはめ込まれているのではないか、とうすうす感じながらも絵を全体として美しいと感じているのではないか、と私は思うのであります。
昨年は、政権が自民党から、民主党に変わり、戦後初めてといっても良いような大変革がありました。民主党はマニフェストをかかげて政権をとりましたが、最近はご承知のように、鳩山政権の信頼度がやや下がってきています。
それはマニフェストの持つリアリティというものが抱えている問題の一つであります。民主党のマニフェストは、民主党の体験がベースにあります。マニフェストは民主党の体験から出発して、その体験の重みから生み出され、政権をとることで、それまでの体験からから飛び上がるわけです。飛ぶことによって成り立つ嘘です。それで成り立った嘘は常に体験に引き戻されて、本当の嘘か、ただの嘘か常に確かめられるわけです。これは、別な言葉で言えば、国策を「観念」の次元から「現実」の次元に引き戻したということになります。
ただの嘘である限りそれは捨て去られ本当のうそだけが残る。そうやって残ることのできた嘘だけが実のある嘘であって、価値のある嘘であります。つまり、体験と比べたとき、これは嘘だ、これは本当だ、と分けられるレベルの物であったら、嘘として立派な嘘ではない、即ち、立派なマニフェストではない、ということになるのであります。
今回、これまで存在しないと政府が嘘を言ってきたアメリカとの核密約の存在も明らかになってきましたが、ビアスは著書の悪魔の辞典の中で、「権謀渦巻く外交は祖国のために嘘を言う愛国的行為」だといったといいます。自国民を欺くことも国益にかなえば可とされてきたということであります。
政権変更に伴う社会の混乱は、今後もなお、二‐三年は続くのではないでしょうか。
その中で民主党政府は、税収が足りずお金がないので、大量の国債を発行しなければならない状態にもなっていますが、このような状態は、明治維新のときも同じでした。
明治維新政府にも金がありませんでした。そのような時、明治政府は旧暦を新暦に変えました。
日本の旧暦は明治五年12 月2日(1872年12月31日)まで使われていました。その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦されました。改暦はほぼ1か月前の明治5年11 月9日(1872年12月9日)に布告し、翌月に実施されました。この年の急な実施は明治維新後、明治政府が月給制度にした官吏の給与を(旧暦のままでは明治6年は閏6月があるので)年13回支払うのを防ぐためだったといわれています。
そう考えてみると、国債のような借金せずに金を捻出した明治政府のほうが、今の政府よりよっぽど頭が良かったのではないかと、思うのであります。
話は戻りますが、人が老いる時とは、どのような状態を指すのでしょうか。こと精神年齢に関して言えば、「新しい挑戦をしなくなった時」に人は老いるのだと私は考えています。
人間とは本来的に変化を好まない生き物です。自分がよく知っていること、手慣れたことを繰り返している限り、結果は予想しやすく、不安を感じずに済むわけです。いつまでも心地良い環境にドップリ浸かっていると、人は次第に外に出るのが億劫になってくるのもまた事実であります。マンネリ症候群や視野狭窄という病に侵されてしまいます。そして最後に行き着く先には、「新しいチャレンジをするなんて面倒くさい、このままでいたい」という“心の老い”が待ち受けているのです。
そんな時、もう恥などかきたくないと逃げ腰になる自分に、こう言い聞かせたいものです。「昨日まで知らなかったことを今日知ることができたなら、それは自分が成長している証です。恥をかくのは、自分にまだまだ伸びシロがある証拠なのです。恥かきは、実は自分が新しい挑戦をし続けているかを知るバロメーターでもあるのです。夢や理想に、「いつまでにどうやって達成する」という具体性をくわえると目標が生まれます。目標を追い続けている限り、人は年をとることはありません。
何も仕事だけが人生ではありません。老後には、色々な老後の目標があってしかるべきです。これを実践している八十歳はいつまでも若者であり続け、これらを忘れた二十歳は若くても老人になる――これが七十歳の青年をもって任ずる私からのメッセージです。
新しく外国語スクールに通い始めるもよし、料理を習うでも、中小企業診断士の資格を取得するでも、フラダンスを始めるでも何でもかまいません。やりたくないことを無理やり始める必要はありませんが、少しでも興味が持てるものがあるなら、ためらわずに兎に角挑戦してみることです。
サミュエルウールマンもいいました。青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言う。たくましい意志、豊かな想像力、燃える情熱を指す。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。年を重ねるだけでは人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。頭を高く上げ希望の波を捉える限り、人は青春にしてやむ、と。
ただ、私は、先日、ある本を読んでいて次のような文章に出会いました。
囲碁の世界で、木谷実といえば、石田芳夫、武宮正樹、加藤正男、趙治勲など多くの名人を排出した木谷道場の創始者で、その実力とともに、指導力は大いに尊敬されているところでありますが、その奥様の美晴さんは、賢婦人と呼ばれた人で、沢山の内弟子を、自分の子供のように親身になって世話したことで有名です。
夫人の生家は長野県の地獄谷温泉の「後楽園」という旅館でした。野生の猿が露天風呂に入る風景がテレビなどを通じて全国に知られるようになりましたが、昭和のはじめころ、そこへ木谷さんが泊まりに来るようになり、美春さんは見初められて嫁ぐことになりました。
いよいよ嫁ぐことになったとき、彼女の父親は「人間は怒ると、長けをはかられるから、怒ってはいけない」と、くどいほど諭したといいます。例えば、2008年9月、時の首相福田康夫氏が突然辞任したときの記者会見で、記者が「首相の言葉は、他人事のように聞こえる・・」と言った時、首相は「私は客観的に物事が見えるんです。あなたとは違うんです」と一瞬気色ばんで答えたのだった。まさしく「人間の長け」が如実に表れた瞬間だったのだ。
という、記事を読みました。
私はこの記事を読むまで、「長けをはかる」という言葉を知りませんでした。それで帰ったら確かめてみようと思いながら、たまたま、同じ日に別の本を読んでいたら、次のような文章に出会いました。
円地文子さんが、昭和五十七年に発表した最後の大作「菊慈童」の中で、「闌位の芸」という言葉を使っている。この闌位とは、闌(た)けたる位のことである。「長ける」とは円熟すること、品格のあること。修業を積んだ末に到達する自在な至高の芸境をいう。
世阿弥の「風姿花伝」に、「闌位の芸」の域に達した役者の演じる能は、ふくよかな老いのうちに瑞々しい若さが含まれ、幽玄無上の風体を演じることができる長たる位に達した芸である。芸を極めた役者が、ある一ヶ所で並に演じるところを意識してはずすんです。乱れるといえば乱れるんだが、その乱れたところがなんともいえないんです、とありました。
「怒ると長けをはかられる」と娘に言い含めた山間僻地の父親は、どんな不便なところに住もうが、素養は身につく人にはつくものであります。能に芸の位があるように、人には老いの位があるのではないでしょうか。「闌位」は花(風情、色気)がある「老いの位」といえましょう。ただ、年を重ねるだけでは「老いの位」には至らないのだと思います。
私も、これからは長けを計られることが無いよう勤めたいというのが、私の1年の計であります。