卓話時間
第1408例会
2009年03月09日 (月曜日)
- タイトル :
- 新会員卓話
「自己紹介」
- 卓話者 :
- 谷田健一君
昨年10月に入会させて頂きました谷田です。
本日は、私が今までに自分が係わって来た事や印象に残る記憶等などについてお話することで、自己紹介とさせて頂きたいと思います。
私は昭和23年3月に生まれた団塊の世代であります。
高校卒業後、東京で4年間の学生生活。そして社会人になってからも職場の関係で35才までの間、殆どの期間を、東京で過ごしました。家族は、東京時代に結婚した妻と、一男・一女であります。長男は東京で就職しており、不況で頭が痛いとぼやきながら日々頑張って働いておるようであります。長女は、広島で結婚し元気のよい2人の孫を連れて、時々我が家に帰ってきてくれます。そういうことで、現在は、妻と2人きりの生活、ある意味静かな暮らしぶりであります。
私は、昭和48年に広島電鉄㈱に入社しました。
会社人生の始めは東京での勤務で所属は観光航空部、仕事は旅行関係でありました。
昭和40年代後半は、高度経済成長の時代であり、海外旅行者数も急激に増えるなど、旅行業も拡大の時代でありました。仕事にも少し慣れ、いくらか順調に推移しておりました頃ですが、昭和49年、第一次オイルショックがおきました。トイレットペーパーが店頭からなくなると言われた程の社会混乱や、また企業にとっても先行き不透明な経済情勢となり、契約済の団体もキャンセルが何件か発生いたしました。突然のことで穴埋めもできず、また上司からは尻をたたかれるし、困った思い出のある新人時代でもありました。
また、東京時代に印象に強く残っているのは、仕事の他には、広島カープが初優勝したことであります。初優勝が決まったのは昭和50年10月中旬、秋も深まったシーズン終盤だったと思います。場初は後楽園球場、対戦相手は長嶋監督率いる巨人軍でありました。その日、私はスタンドで観戦しておりました。本来ならビジターは3塁側でありますが、手に入らず仕方なく1塁側に座っておりました。ジャイアンツファンに囲まれての少し窮屈な観戦でありました。試合は、誰が先発で、誰が得点し、展開がどうだったのかも、今ではあまり覚えてはいませんが、優勝決定の瞬間の球場全体の興奮が記憶に残っております。夢のような光景でありました。
私は、いわゆる熱狂的なファンではありませんでしたが、それでも歓喜の渦の中へ瞬間的にのみこまれていきました。その日は、興奮治まりがたく、夜遅くまで繁華街を練り歩いたと言いますか、走り回っておりました。会社の仲間と手作りした、ノボリ「カープ優勝」を持って街頭を走り回っていると、多くの方から声を掛けて頂きました。カープファン以外の方からも、心温まる声援を多く頂きました。また、これは思いもよらなかったことですが、東京には実に多くのカープファンがおられました。神宮球場へよく通っていたので3塁側に応援団がおれるので承知はしておりましたが、その日は思った以上に多くのファンにめぐりあいました。
「のぼり」を目印に、皆さんから何回も声をかけて頂き、集い合って万歳三唱、手を取り合って喜び、そして祝杯へと流れてゆきます。これが延々と繰り返された1夜でありました。
祝杯の席に座っている相手は居酒屋毎に顔ぶれが異なり、誰がどこのどなたかお互いに分らないままの祝宴でありました。その日家へ帰ったのは、当然のごとくかなり遅くなってからであったと思います。
さて、広島カープは今年、新球場のオープンの年であります。新しい球場で、今度は広島であの感激をまた味わいたいものであります。ブラウン監督をはじめカープナインには、この記念すべき新球場元年に大いに期待したいと思っております。
東京での勤務を終え35才で広島に帰ってまいりました。広島では、バス部門の仕事に就きました。業務内容が以前のものとは違うことに戸惑いもしましたが、地域の皆様の日常生活のお役に立たせて頂ける「公共交通」に携わることは、やりがいのある仕事でありました。 バス部門で最初の仕事は業務部門を担当いたしました。路線の新設やダイヤ変更、運賃関係などの営業事務が主な仕事でありました。業務部門の次のステップは、営業所勤務でありました。
営業所は、日々のバス運行と、管轄するエリアの路線・営業管理等などを行なっております。
在籍中、数多くの路線に関わりましたが、記憶に残る路線はクレアラインであります。この路線は、広島バスセンターから・東雲・広島大橋・呉広島道路を経由して呉本通り6丁目を結んでおります。
私が、呉線を担当している営業所へ異動になった当時、国道31号線のバイパスとして自動車専用道路(呉広島道路)の供用開始が約1年後に予定されておりました。その当時の、広島~呉間のバス路線は、広電バスが広島大橋・国道31号線経由で日に11便運行しているだけでありました。昔、昭和30年代から40年代にかけては、広島~呉間のバス路線は黄金時代でありました。
当時は広電バス、旧国鉄バス、呉市営バスと3社で競争のように運行しており、都市間輸送の動脈としての存在感がありました。運行便数は定かではありませんが、1日百数十便は軽くあったように思います。
しかしながら、経済成長に伴うモータリゼーションの到来、そして交通渋滞の発生、結果として道路交通は定時制が難しくなりバスの便数も減少してゆきました。新たに供用開始される「呉・広島道路」を利用すれば、所要時間の短縮と定時制が確保できます。当時の広島市と呉市との交通は、広島の国道2号線バイパス沿線地域(東雲・仁保地区等)は、時間的にも距離的にも不便な地域でありました。そして、この地域には、大学病院や、出塩町付近の学校群、そして大手町には広島市役所、日赤病院などの施設が数多くあります。ここを直線的に結び、バスに新しい役割を与えたいとの思いで新路線の運行を開始いたしました。新路線・クレアラインは沿線の皆様から評価を頂き、当初の25往復から徐々に増加して、現在は63往復になっております。 そして一部は、呉市東部の阿賀や広地区まで路線を延長しております。
次に勤務したのは、平成11年から5年間、本社が庄原市にある備北交通㈱に出向いたしました。庄原市・三次市・高田郡吉田町を事業エリアとして、地域内輸送・特に通学輸送について大事な役割を頂いており、少子高齢化のなか地元市町村と協議しながら路線運営に努めておりました。また、高速バスは広島市とを結ぶ幹線として観光も含めてのご利用を頂いておりました。観光に関しては、庄原市の上野公園は、日本桜百選にも選ばれている名園であります。
桜の季節の素晴らしさを広島の人に見て頂きたいとの思いで観光協会のメンバーを中心に、広島からの高速バスと、庄原市内観光のパッケージ化を企画しました。桜の季節に合わせた1週間程の短い期間でありましたが、多くの方々に上野公園を楽しんで頂けました。
続いて、秋には帝釈峡の紅葉狩りを企画いたしました。
古民家での食事・囲炉裏端に座って、手打ちそばや、やまめの串焼き等、田舎の素朴さをゆっくり楽しんで頂ける小旅行であります。お陰さまで、春・秋のツアーともご好評を頂き、次年度からも継続いたしました。
このように路線バスの仕事に長く携わってきましたが、沿線の皆様の日常生活のお手伝いをさせて頂けたことや観光等、地域間交流にも少しはお役に立たせて頂けたのではないかと感じております。これも、その時々において多くの方々に助けて頂いたからだと感謝しております。そして現在は、㈱ホテルニューヒロデンに勤務しております。
今までの経験を踏まえ、もう一度勉強しながら上質な商品を作ってゆけたらと思っております。まとまりのない話でありましたが、今後ともよろしくお願い申しあげます。