卓話時間
第1353例会
2007年11月05日 (月曜日)
- タイトル :
- ゲスト卓話 「留学先に日本を選んだ経緯」「現代の大連」
- 卓話者 :
- 米山奨学生 葛 勇君
皆さん、こんにちは
葛勇(カツ ユウ)と申します。皆様のお陰で、安定な留学生活をしており、皆様に大変感謝しております。
つぎまして私の卓話ですが、二つを分けて話をさせていただきたいと思います。
一つは、留学先になぜ日本を選ぶのか、
二つ目は、第二故郷の大連について簡単な話をさせていただきたいと思います。
よろしく、お願いします。
なぜ、わたしが留学先に日本を選んだかと言いますと、私の成長とともに日本に対する思いがいろいろとできてきたからです。
最初日本を知ったのは、小学生の頃に見た中日戦争を題材とする映画でした。その映画からは「日本人は悪い」という印象しか感じられませんでした。
しかし、中学生の頃になると、自動車、テープレコーダー、テレビなど日本製の商品がどんどん私の住んでいる地域に入ってきて、皆の注目を浴びていた。日本製のテレビが家にあることは、その家の子どもの誇りでした。
日本のテレビドラマを見られるようになったのは、私の高校時代だった。「日本人は礼儀正しい」、「日本人は働くことがすき」、「日本は美しい」など、日本についてぼんやりした認識をもち、「日本」と聞くと、国の名前の代わりに桜や和服を着ている女性の姿、豊田の車というイメージが、すぐに頭の中に浮かぶようになり、日本のことがもっと知りたい、日本に行ってみたい、と思うようになりました。
その後、就職した会社で日本の自動車と機械に触れるチャンスが多くなり、日本語で書かれた説明書を読みたくてたまりませんでした。特に会社の経営管理は日本の管理システムを真似てやっています。それに魅せられて日本のことを学びたいという意識が強くなりましたが、そのとき、日本に留学することがまだ難しい状況でした。
1995年(平成7年)9月、私は会社から、3年間の休みをもらって、短大に入学し、2年後卒業してから、転職を考えながら大連に行ってみましたが、日本の企業がたくさん建てられ、日本語を勉強することにも流行ったことがびっくりし、そして、日本語の勉強が始めました。(自学なので、日本語の発音がおかしい部分が結構ある)そのとき、日系会社(三井物産服装会社)で勤めている兄嫁から、日本人は仕事に厳しいとか、真面目とか、日本人の生活習慣、日本人のやり方など、いろいろ話を聞かされ、「なぜ、日本は強いのか、その本質はなんだろうと、それを知りたい、自分の肌で日本を感じたい」、「絶対日本に行く」という思いが強くなり、すると、兄がマンションを買うチャンスを利用して、戸籍を内モンゴルから、大連に移しました。(なぜか言いますと、大連の人が日本に来られやすい、も一つ、大連にすきになって、すみたいという気持ちがあるからです。)
平成9年年末ごろ、会社に戻って、また2年間働いて、少し貯金して、それに、会社から一万元の借金をして、長期の休みを取って、平成12年の3月広島に来ました。
今年は日本に来てもう八年目になっています。留学生活は厳しいですが、楽しさもあります。いろいろな勉強ができ、日本に来てよかったと思います。特に今年皆様のお陰で、米山の奨学生になって、とても嬉しいです。米山奨学生になったことは、安心な勉強ができただけではなく、皆様からいろいろなことを学ぶことができ、皆様との付き合いは、私にとって一生の宝だと思います。皆様にこころより大変感謝しております。
また、私のカウンセラーをしてくださった若木さんが、大変親切でお父さんのように、お兄さんのようにお世話していただき、この場をかりて感謝の気持ちを申しあげます。(若木さん、ありがとうございます。)
つぎに、大連について話をさせていただきたいと思います。
大連のことを言いますと、私よりもっと詳しく知っている方がいらっしゃると思いますが、間違ったところがありましたら、勘弁してください。
一、現代の大連
大連は、1945年10月大連市政府が成立し、1985年政令指定都市になった中国北方の重要な港、貿易、工業、観光の都市であります。総面積約13800平方キロ、人口約590万人がいます。交通至便で、発達し、工業基盤が厚く、金融と商業が盛んであり、海産物と果物を重要な産地でもあります。総合実力は中国50の大中都市の中で第8位につけています。
1985年国家から対外貿易権限が与えられて以来、大連の物産は世界120カ国と地域に輸出されています。すでに日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、カナダ、韓国等8カ国の13の都市と姉妹関係や、友好協力関係を結んでいます。
二、大連の歴史
大連はなぜ「大連」という名をしたかといますと、いろいろな説があります。
大連の名は初めて登場するには、1860年(明治維新の8年前)イギリス人のヨハンワットの測量地図「遼東大聯湾海図」といわれますが、其の後「塔連」「達連」と呼ばれるようになりましたが、実は「塔連」という言葉は、満州族語で「海」の意味をしています。
日露戦争後の1905年(昭和37年)日本遼東守備軍司令の命令で公式に「大連」に改称されたということであります。
近代歴史において、大連は日清戦争、日露戦争の主戦場であり、約半世紀の間ロシアと日本の殖民地にされて、日本が殖民地としての歴史は40年間もありました。
(この電車は満州国の頃に日本人が持ち込んだものです、今も運転しています。車内をみると、広島の電車より古いと思います。)
三、大連の自然地理
大連は遼東半島の最南端に位置し、三方を海に囲まれて坂の多い、中国の北方の最大の港湾都市であります。気候的には温帯に属し、年間平均気温も10度前後で、適当な湿度を持って東北地方の中では最も過ごしやすい都市で、北方の香港だと言われています。
四、観光地としての大連、
観光町として、大連は大変魅力に溢れている海岸都市であります。19世紀末に帝政ロシアの租借地となりロシア風の街並みが造られました。日露戦争後は日本が占領し、この頃に日本人の設計で立てられた洋風の建物が現存し、他の中国の都市に比べ、綺麗な街という印象です。景色も美しく、美人も大勢です。町のどこにも綺麗ですし、人々が対日友好であり、交通も便利なので、現代3万以上の日本人が住み着いています。どこに行っても、日本語OK、日本料理、スナックなどがたくさん散在しています。大連には、生活費がやすいから、近年数多くの退職した日本人が大連に住み込んで、大連の日系企業で高級な人材として活躍しています。
(ロシア風情本通は、100年前、ロシア人が建てたもので、長さは450メートル、2000年頃に大連政府がすべての建物を昔のままに建て直しました。
南山日本風情本通りは、大連の一番重要な位置に建てられ、長さは700メートル、世界中のいろいろ国の別荘の建築風格をとりいれ、建物が120棟あります。この中に日本料理店、スナック、居酒屋、書店、茶道の見学などを設置されて、インフラ施設は全部日本から導入し、室内の配置も日本のようにしています。)
大連には、大小いろいろな行事がありますか。特に大きなものが四つあります。すなわち、五月末の「アカシア祭」、7月の「中国大連輸出商品交易会」、九月の「大連国際ファッション祭」、そして10月か11月に開催される「大連国際マラソン」です。
五、大連経済技術開発区
大連市中心を離れた27キロのところに「大連経済技術開発区」という場所があります。そこに駐在日系会社の数は407家に達しています。Cano,東芝、三陽などの日本のブランド企業が大体この地域に駐在しています。
まとめ、
大連は世界の大都市の中でも日本と極めて特異な関係を有している都市といえます。かつて多くの日本人がこの地に住んでいたという歴史的な繋がることで、大連は日本人にとって心理的な「近さ」を感じることができるところです。
最後に、外資に向けて新しく開発している、「長興島」というところを紹介したいと思います。一緒に画像を見てみましょう。