卓話時間
第1720例会
2016年08月29日 (月曜日)
- タイトル :
- 新会員卓話「自己紹介」
- 卓話者 :
- 上田 恵君
皆さんこんにちは
有限会社Pワークスの上田恵と申します。仕事は飲食店専門の事務代行業と飲食店経営です。
本日は、大した経歴も自慢できるようなことは無いのですが、自己紹介させて頂きます。
昭和41年4月23日生まれ、今年満50歳になりました。家族は41歳の妻と5年生の長男、3歳になった長女の4人家族です。
出身は、岡山県の新見市で、兼業農家の次男として生まれました。78歳になる母親と6歳離れた姉と5歳離れた兄がおります。父は13年前に他界しました。私の生まれた新見市は、岡山でも県北に位置し、年々過疎化が続いています。そのなかでも更にはずれに位置し、同級生も男5人しかいないところで育ちました。毎日片道5キロ歩いて学校へ通ったため足腰が鍛えられたと思います。遊びといえば友達と山へ入り、基地を作ったり川へ魚釣りに出かけたりと自然と戯れることばかりでした。
小学校を卒業すると、グランドを挟んで目の前にある中学へ入学です。つまり小1から中3まで9年間男ばかり5人の少年時代を送りました。ちょうどその頃TVでは「3年B組金八先生」が流行り、朝のモーニングニュースでは「校内暴力」が頻繁に取り上げられる時代でした。
私のいた田舎は非行とか、そういうものとは無縁の生活を送っておりましたので、勉強と言えば個人授業のようなものですから中学卒業までは、かなりできたような気がします。
中学校を卒業し、進学校の新見高校は、初めての男女共学でした。中学時代は人数も少なかったので、部活は個人競技でソフトテニスをやっていました。高校ではサッカー部で鍛えた足腰を武器に走り回っていましたが、やはり次第に良くない友達もでき、土曜日の夜は友達の下宿で過ごしていました。次第に授業に身が入らなくなり、3年になるころには担任に「入れる大学はないぞ」と言われ慌てて受験勉強をしました。
もともと関西方面に進学を希望しておりましたが、当時3年間で8回振られた片思いの人が広島の女子大を第二希望にしているという情報を入手し、広島に私が入れる大学は無いかと担任に相談。広島にある大学に進学しましたが、その人は京都の女子大に。同郷のあわよくば!という思いは消え去りました。
という訳で広島での生活が始まったわけですが、最初は寮生活でしばらくは平凡に過ごしていました。寮の門限が10時と厳しかったため、やがて寮を出てアパート暮らしを始めました。毎日のように、同級生や先輩と夜の街へでかけることが続いたため、 アルバイトに進路変更したところ、私の進路が見えてきました。
当時ディスコが大ブームでした。田舎者の私にとってアルバイトは本当に楽しい日々でしたが、どうしても我慢できなかったこともありました。柔道で国体にも出場したことがあるような身長も180cmを超える巨体の店長でしたが、私の18年の田舎生活では出会ったことがない方でした。ある出来事以来、怖くなり次の日よりそのバイト先には行かなくなりました。
しばらくして知人のマスターに電話をかけたところ「うちで働いたら?」と誘われお世話になりました。
そのお店は今でいうボーイズバーで、スナックの男性版でした。初めてのなじみ客様が2時を過ぎると必ずあらわれるオカマ軍団でした。ホモの次はオカマか!と思いながらも、チップをたくさん頂き、大変助かりました。その時のマスターの教えが、今でも役に立っています。
21歳ぐらいになったころ、大学の友人から「お店をしようと思うんじゃけど一緒にやらんか?」と誘いがあり、もう一人の友人と3人でボーイズバーを始めることになりました。これが50歳になった現在に至っております。
カウンター10席ほどのお店がバブルの影響もあり、1年もすると店舗拡大とチェーン店をつくり、携帯やPHSの販売も手掛けました。
ところが、現場から離れていたので、店舗の売り上げが下がりはじめ、しかたなく店舗数を減らし、私も現場に戻ることにして、店舗を減らし、他の店舗を大きくする事にしました。昔からの知人の勧めで、事務代行業の部門を発足し、現在はラウンジ2店舗と、バーを経営しています。
先輩からのお誘いで4月より中央ロータリークラブに入会しましたが、自分の中では3年続けることができたら、「私はロータリアンです」と言えるのかなと思っています。これからも仕事や、人として精進する所存です。諸先輩方からの厳しいご指導を頂きますよう、よろしくお願いいたします。