- 本日のプログラム
- 新会員卓話「自己紹介」
- 卓話者
- 池田繁実君
- 担当
- プログラム
- 祝事等
- ・連続100%出席(2名)
・結婚記念日(4名) - 会長時間
- 1999年6月29日、広島市佐伯区を中心に土砂災害が発生し、犠牲者が出ました。これを機に土砂災害防止法が制定され、警戒区域と特別警戒区域が指定されました。広島県では危険地域は3万1987カ所あり、今までに全体の30%しか指定されていません。また、広島県の砂防などの予算が年々減額されていることが昨年8月19日の議会で明らかになりました。皮肉にもその翌日 八木地区に短時間集中豪雨で土石流が発生し、72人が犠牲になり、可部高松山流域でも2人が犠牲になりました。
広島の集中豪雨は1時間に100mm超というとてつもない雨量でした。積乱雲1個で1時間降ると、20~30mmの雨と言われていることから、1時間で積乱雲が5個発生したことになります。積乱雲を次々と発生させ、線状降水帯を作ることをバックビルディングと言います。水蒸気を多く含んだ南風が豊後水道を渡り、1000m級の中国山地にぶつかって積乱雲が発生します。怖いですね。解析度が高まった気象衛星ひまわり8号の活躍が望まれます。
避難についても考える必要があります。日本では漢字2文字で避難しかない。「危ないから逃げろ」としか理解されていません。
欧米では、3種類に分類されています。1つ目は緊急避難(evacuation)、2つ目は滞在避難(sheltering)、3つ目は難民避難(refuge)です。2つ目と3つ目は行政が対応できますが、1つ目は個人個人で住んでいる条件が違い、行政の避難指示の伝達に困難さがあり、最終的には「自分で判断」し、想定に拘らずに率先して行動することです。前提としてそれぞれ地区の危険性やその対応策を行政として明確にして住民に伝える必要があります。
自然災害は繰り返す、自然の脅威には勝てません。「災害から逃げる」「自然の力を弱め、分散させる」ことが必要です。自分たちが住んでいる地域の地理条件、気象条件、自然環境の履歴など歴史の教訓を調べ上げ、それを生かすことが防災につながると思われます。
昔は、「災害は忘れたころにやってくる」、今は、「災害は忘れる前にやってくる」です。
・R財団・ベネファクター認証状及び認証PIN贈呈(田原会員)表彰
・会報ファイル訂正 - 幹事報告
- ◎BOX配布物の確認
①理事役員会議事録・10月例会プログラム
◎次週9/21例会について
祝日の為、休会 - 委員会報告等
- ◎職業奉仕 四つのテスト唱和
◎出席 出席報告
卓話時間
新委員卓話「自己紹介」
池田繁実君
自己紹介
私は7月に緒方俊平様、黒瀬真一郎様のご紹介で「広島中央ロータリークラブ」に入会させて頂きました池田繁実と申します。本日は貴重なお時間を頂きありがとうございます。弊社(中国四国博報堂)は歴代社長が広島中央ロータリークラブのメンバーで私も引き継ぎ前社長の渡辺悦男の後任として入会させて頂きました。私は東京生まれの東京育ちで、これまでたまたま一度も転勤がなくこの4月に初めての転勤で広島にやってまいりました。しかも生まれて初めての引越しという、極めて特殊なサンプルでございます。広島へは娘がまだ大学生ということもあり、単身赴任でやってまいりました。そして今までロータリークラブの経験がなく、初めてのロータリー活動となります。今日は早くお役にたてるようになる為にも私を知って頂きたく自己紹介いたします 。「生い立ち」、「家族」、「会社」のことなお話しさせていただきます。よろしくお願いいたします。
生まれは1959年9月3日。皇太子殿下は同学年になります。調べてみたらドラえもんと誕生日が一緒でした(ドラえもんは2112年9月3日生まれ)。生まれ育った東京都世田谷区松原は電車の駅でいうと京王線の「明大前」という駅です。山手線の西側で、新宿、渋谷から距離で約5キロ、電車で10分程度と交通の便が良い場所です。私の幼いころの最初の記憶は1964年の東京オリンピックです。家の近くに甲州街道があり、そこがマラソンコースで、父の肩車でマラソンを見て、優勝したアベベが目の前を走って行ったのを記憶しています。地元小学校に入学し6年間通いました。小学校5年の時、大阪でEXPO70、万博が開催され家族で見学に行きました。
その後神奈川の私立桐蔭学園中学に入学。入学前年の夏の甲子園で桐蔭学園が甲子園で優勝し、野球少年であった私も少なからず刺激を受け桐蔭学園に進学した経緯もあります。
桐蔭学園は中高一貫でしたので高校はそのまま進み、1年浪人して早稲田大学に入学しました。学部は政治経済学部経済学科です。当時は良い時代だったというか、楽しい学生生活を送りました。授業もほどほどに麻雀に没頭した時期もありました。大学ではスキーの同好会に入り、冬場は群馬の草津スキー場でバイトをしながら滑っておりました。大学のゼミは金融だったのですが、就職は金融を志望せず。マスコミ志望になりました。
学生時代までの生い立ちを紹介しましたが、家族をご紹介したと思います。4人家族です。
妻は理恵子と言います。1990年に結婚しまして今年10月で25年になります。子供は2人で息子が24歳で今年から社会人になりました。娘は今年ようやく20歳で大学生活を満喫しているようです。現在単身赴任中ですが、妻も広島が大変気に入って、月の三分の一は広島に来ています。息子、娘も夏休みにそれぞれ遊びに来て広島を楽しませていただきました。お好み焼き、しまなみサイクリング、何と言ってもカープ観戦です。広島にちょくちょく遊びに来たいと言ってます。東京にいたら中々このように家族、子供と過ごすこともなかったと思っています。家族の絆が強くなりました。博報堂での経歴をご紹介いたします。1983年昭和58年に博報堂に入社。一貫して営業畑でやってきまして営業部長を経て、営業局長7年つとめた後広島にやってまいりました。東京時代たくさんのお得意先を担当させていただきました。続いて博報堂紹介をさせていただきます。博報堂は今年で創業120周年となります。元々は、明治時代の教育雑誌の広告取次店で日本の広告業界では草分け的な存在です。大きな転機としては1982年に業界に先駆けてシンクタンク「博報堂生活総合研究所」設立したことです。消費者を生活者としてその潮流をとらえたことが世の中に受けました。現在では「生活者発想」が会社のポリシー、DNAとして全社員に浸透しています。続いて中国四国博報堂の紹介です。広島の地で仕事を始めたのは1959年(昭和34年)の7月だそうで。その後博報堂広島支社を経て2003年に支社を地域会社化し中国博報堂が設立されました。そして2013年に同じく四国の地域会社だった四国博報堂を統合し中国四国博報堂ができました。テリトリーは中国5県、四国4県の9県で、営業拠点は広島本社と岡山、松山、高松に支社があります。広島がメインですが瀬戸内海をグルグル回って結構出張が多くあります。私はもともと魚好きですし、お酒も嫌いではないではないので瀬戸内海の回遊は本当に幸せです。最後にこれからの広告についてお話します。既に始まっていることなのですが今まではテレビや新聞、雑誌、ラジオといったマス媒体を使って一方的に顧客に対して自社の魅力を伝え、よりインパクトの強い表現で説得型活動を行ってきました。ただし最近はデジタル、インターネット、SNSが台頭し、顧客と一緒に”発想する広告、共感型の広告にシフトしています。一方的な説得ではなく、社会性、環境問題など踏まえて世の中の共感を得る活動が重要になってきています。生活者が自らSNSなどで情報発信してることから生活者もメディアとういう側面を持ち始めたということです。色々と長々お話しましたが、これで卓話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
以上