- 本日のプログラム
- 新会員卓話「自己紹介」
- 卓話者
- 土谷治子君
- 担当
- プログラム
- 祝事等
- ・連続100%出席(2名)
・結婚記念日(4名) - 会長時間
- ◎米山功労者表彰 第二回マルチプル 土肥博雄君
◎ロータリアンの三大義務について
例会に出席すること 会費を納めること ロータリー雑誌を購読すること
◎例会について - 幹事報告
- ●BOX配布物の確認
①理事役員会議事録・10月例会プログラム
②2015-2016年度ロータリー財団奨学生募集について
●例会について
9/15は祝日の為、休会
●ダメ・ゼッタイ普及運動募金協力のお願い(募金箱回し) - 委員会報告等
- ◎ 職業奉仕 : 禁煙例会・四つのテスト唱和
◎ 出 席 : 出席報告
◎ R財団委員会 : ロータリー財団奨学生募集について
卓話時間
新会員卓話 「自己紹介」
土谷治子君
土肥博雄先生、田中純子先生にご推薦頂き、本年3月入会させて頂きました、土谷治子です。本日は自己紹介の時間を与えて頂き、有難く思っております。
今日は、私のいままでと、土谷病院についてちょっと紹介させてもらいます。
昭和32年7月4日生まれ 酉年 蟹座のA型です。外科医である父 土谷太郎と、三原の開業医の娘である母 佐枝子の二女として、広島市内で誕生しました。二つ違いの姉がいます。姉は、いつも真面目なコツコツ型で、自分にも人にも厳しい人で、真面目で優秀な姉と、ちゃらんぽらんな妹ということで、小さい頃よりコンプレックスをもちながら、今に至っています。姉は現在、東京に在住で埼玉医科大学画像診断部の教授をしております。
広島生まれの広島育ち、少し東京にも行きましたが、ほとんど広島市大手町の住所のまま変わらずにいます。。幼稚園は国泰寺にある中央幼稚園、そこから千田小学校へ進学しました。小学校、中学、高校大学と私はこれと言ってクラブにのめり込んだわけでもなく、かと言って勉強に必死になったわけでもありませんが、親が教育熱心だったので、なんとなく、中学からはノートルダム清心中学校に進みました。田中純子先生とはここで出会いました。彼女は運動もできる、勉強もできる人で、私との共通点はあまりないのですが、学生時代から結構 仲良く、一緒にいることは多かったです。中学に入ってからは本当に勉強しなかったので、というのも その頃の私は清心短大に進んで、はやくに結婚して、5人くらい子供を産んで、専業主婦になるというのが夢でした。でも、これもなんとなく、目標を立てずに過ごしていると親のレールの上を走らされ、結局、医学部を受けることになり、昭和51年に東京医科大学に入学することになりました。
大学の生活は本当に楽しかったです。己斐の山の上でシスターに囲まれての生活から、急に新宿のど真ん中のバンカラな学校に放り込まれ、何もかもが初めての世界で楽しく、精一杯遊ばせてもらいました。ただ、親にお金を出してもらったことには恩義を感じていましたので、再試験にだけはひっかからないことを目標になんとか6年までやってきて、最後の一年は、自分の人生で一番真面目に勉強したというくらい真剣に勉強し、大学を卒業することができました。
国家試験に無事合格し、広島大学の産婦人科学教室 藤原篤教授の元に入局しました。その後は、尾道総合病院、広島記念病院で勤務をし、昭和62年、今の主人と結婚しました。急に結婚したのと、主人の家族は、私が働くことを望んでいなかったので、仕事が決まらないまま、東京に行く事になり、東京に行ってからはどうやって仕事を探がしていいのかわからず、職安にも行きましたが、医師の求人は職安にはないと言われ、東京女子医科大学に勤めていた姉が紹介してくれて、どうにか女子医大の医局に入る事ができました。
この東京の女子医大の生活は3年でその間二人の子供を生み、産休もとりましたので、実質は2年少ししか女子医大にはいなかったのですが、ここでは本当にいろいろな事を学びました。とにかく症例が多く、朝から晩まで一日中手術室にいて、3日連続当直もありなど、女医も子供がいようがみんなそれをやっている、すごいところでした。ここで子供がいても、頑張れば仕事も子育てもできるのだということを学ばせてもらいました。保育園とシッターさんとお手伝いさんと、娘が熱がでれば、母が広島からやってきて、羽田で娘を渡して、熱がさがったら、又、母が羽田まで連れてくると、とにかく、お給料は全てシッターさんで終わってしまうという生活でしたが、この3年は私の中では、一番充実した時期だったように思います。主人と両親とシッターさんとみんなに支えられた3年間でした。
ここで、主人がアメリカに留学することになりました。二人の子供を連れてアメリカに行ったら、絶対仕事はできない。。。。。臨床を休むことは考えれない、でも一人で東京では働けない。。。と考えた末、土谷の産婦人科に帰る事にしました。広島に帰ったことにより、仕事での私の成長はやや失速しましたが、広島に平成2年に帰り、平成3年6月に父が脳梗塞で倒れましたので、親不孝の出来の悪い娘でしたが、少しの間でも父と土谷病院で一緒に働けたこと、子供が大好きであった父に孫との生活送らせてやれたことは、最後の親孝行だったと思っております。 土谷の産婦人科は、性教育で有名な河野美代子先生が初代の部長として昭和56年に始まりました。私が広島に帰った年に、河野先生は開業されましたので、数ヶ月しかご一緒しませんでしたが、この先生も又とても勢力的な先生でした。土谷の産婦人科は産科が主体の病院で地域周産期母子医療センターに指定されています。現在は私を含め常勤の女医が3人と非常勤の女医の4人で頑張っています。産婦人科は最近、女医が増えてはいますが、地域周産期母子医療センターいおいて女医だけでやっている病院は日本全国でもそうないのではと思っています。
ここからは土谷病院について少し宣伝させてください。
土谷総合病院は、昭和12年4月1日土谷剛治により広島市西新町(現在の土橋、河原町あたりに)、個人病院の外科土谷病院としてスタートをし、約30年後、昭和41年5月19日に医療法人あかね会を土谷太郎が設立し、当時としては、高度先進医療であった人工透析を導入し、その後、循環器内科、心臓外科等を開設し、総合病院へと至りました。 医療法人あかね会は「いま、求められている医療の最高レベルをめざすとともに、明日の医療のあり方に機能しよう」の理念のもとに、土谷総合病院の関連施設として 阿品土谷病院、老人保健施設 シェスタ、大町土谷クリニック、中島土谷クリニック、広島手の外科・微小外科研究所、土谷居宅介護支援事業所、土谷訪問看護ステーション、土谷ヘルパーステーション、土谷ディサービスセンターから構成されております。 現在、土谷総合病院は、広島市中区中島町、平和記念公園を見渡せる広島でも有数の眺望(建物自体は築30年を経過しておりますが)を望める位置にあり、病床数 394床、腎臓疾患、循環器疾患を中心に24時間体制で救急患者を受け入れ、地域社会から真に必要とされる、良質の医療を提供できる病院をめざしています。
ロータリーに入会して、今、一番困っていることは、中々、時間が取れず、行事に出席できないことです。今後、皆様にはご迷惑をお掛けすることも多いと思いますが、少しずつでも皆様のお役にたつよう、頑張っていこうと思っておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。