- 本日のプログラム
- 会員卓話「古保利薬師の仏像」
- 卓話者
- 迫田勝明君
- 担当
- プログラム
- ゲスト
- 第2710地区 G7ガバナー補佐 久行敏夫氏
米山奨学生 葛 勇 君 - 祝事等
- 誕生会員(5)名
配偶者誕生月(6)名 - 会長時間
- ◎国際ロータリー第2710地区グループ7の久行ガバナー補佐を迎えてのクラブアッセンブリーの紹介と意義について。理事役員・リーダー・3年未満会員を出席義務として開催。
◎美術同好会・ロンガルス同好会の秋の一泊研修旅行について
湯泊(ゆば)温泉(岡山)と倉敷散策と備前焼窯元訪問。カラオケで盛り上がった夜の懇親会。 - 幹事報告
- 1.BOX配布物 (会報9月号、ガバナーズレター、ロータリーの友誌、例会変更のお知らせと職場訪問例会について、米山奨学事業「豆知識」、台中西区RCの名簿
2.2008-09年度ロータリーカレンダーの購入について
3.例会変更のお知らせ、次週は休日です。
4.地区大会について 入会3年未満会員の登録協力により計30名の登録
5.参加者への登録補助金は11月に相殺します。
6.ロータリー財団国際親善奨学生幸元貴志君より、入学手続き完了の知らせが届きました。
7.例会終了後4階「竹の間」にて、クラブアッセンブリーを開催します。 - 理事役員会
- 本日、クラブアッセンブリー終了後、同室で理事役員会を開催します。
- 委員会報告等
- 出 席 : 出席報告
クラブ会報・資料保存 : ロータリーの友、読みどころ紹介
親 睦 : 職場訪問例会と秋の親睦会のお知らせ
ロンガルス : 美術・絵画共同で秋の研修旅行の報告、第5回作品展のお知らせなど - その他
- 葛勇君、萩研修旅行のお土産
ソングリーダー:熊野 巧君
卓話時間
「古保利薬師の仏像」
迫田勝明君
古保利薬師の仏像
迫田勝明
広島市の北部40kmの北広島町に古保利薬師はある。古保利薬師には、本尊の薬師如来坐像をはじめ、その脇侍の日光・月光菩薩立像、先手観音立像、3躯の11面観音立像、四天王立像4躯そして吉祥天立像の計12躯の古い仏像が安置されている。
これらのことから私が感じる疑問として、
(1) なぜ千代田の地にこれだけの仏像があるのか
(2) 平安時代初期に、これだけの仏像を所有したオーナーは誰であったのか
(3) これらの仏像は、千代田で作られたものか、あるいは他で作られて運ばれたものなのか
(4) この仏像を作ったのは誰か
(5) 古保利薬師が廃寺になったのは何故か
などがある。
古保利の仏像の素材は、薬師如来像はじめ殆どの仏像は、榧材一木造で、平安初期の作品9-10世紀の製作と考えられている。
仏教が渡来した後、しばらくは中国、朝鮮などで造られた仏像が日本にもたらされた。その後、国内でも渡来系の鞍作止利などによる制作が始まる。渡来仏の多くは金銅造りだが、製作に高度の技術を要すること、材料費が高価であること、重量が調整できないことから、平安時代に入り木造が主流になる。
木造は、日本でもっともポピュラーな製法で、現在、国宝や重要文化財の約90%が木彫像である。一番古くから用いられたのは樟(くす)で、ヒノキやカヤ、桂、欅、なども用いられた。
先ず、一木造だが、飛鳥時代が例外なく楠の木であったのに対し、ヒノキ、カヤ、といった針葉樹系の木材が使用された。カヤは天平時代末から平安時代初期の仏像の用材として多く使用されている。
カヤは甘い芳香性もあり、肌合いが檀木の緻密さに及ばない点を除き、代用材としての適正を具えている。榧が白檀に似ているところからカヤの仏像を檀像様の仏像という。檀像様の仏像は、「香り」を生かすために髪の毛、眉、目玉、唇を彩色する以外はすべて白木のままの仕上げである。
仏像を腹の辺りで輪切りにしたときの仏像の形は時代により異なる。飛鳥時代の7世紀頃は腹もあまり出ていない。次の奈良時代(8世紀)は、すこしだけ横に長い楕円形である。ところが平安時代はじめ(9世紀)の仏像は、円形に近い。正面から見ても横から見ても幅が変わらない。これが平安時代の後半(11世紀)になると、横に広い楕円形になる。以上の事実はいずれも古保利の仏像が平安時代前期の作品であることを示唆している。
これらの背景から見ても、古保利の仏像は平安時代のものと見て間違いない。
古保利は日本海に注ぐ江の川上流に栄えた山県郡の中枢にあって5卿を統括する群衛が置かれたところで、山県郡の政治経済の中心であり、郡家があった場所と想定される。
この地の中心となる寺院として、国造以来の豪族の手によって、平安初期に創建されたと考えられる。古保利薬師は現在、廃寺となっているが、元来はどのような寺であったのであろうか。福光寺(古保利薬師)はもと四十九坊を具えたと伝えられるように、その広さからいくつもの堂を持つ大寺院であった可能性が高い。弘仁年間(810-823)弘法大師が古保利山福光寺を開基したと伝えられている。
平安末のころ山県郡に盤据した凡(オオシ)氏の一族が当方面にあった福光寺の名主であったこと、寺名がこの名(ミョウ)の名と符合することから、凡氏の氏寺として建立されたものではないかと推測されるだけである。福光寺は格段に多くの仏を安置していた点で特異である。
一方、空海(弘法大師)は、806年中国から帰国し、紀国の金剛峰寺や京都の東寺(教王護国寺)を拠点に真言宗を開いた。空海は真言密教を極めるためには山岳修行が欠かせないと考えていた。
空海が真言密教の本拠地とした高野山は、紀国の丹生氏から譲り受けたものであった。真言密教の道場となった諸国の真言宗寺院の多くは、元は丹生明神の神社であった。四国から紀州にかけては、紀伊水道を挟んで、連続した水銀の鉱脈があった。
修験者は修行のかたわら、山岳地帯の修行者の道を通って運搬作業に携わっていたのではないかという。この時代、金の産地は東北であり、金の精錬に水銀は欠かせない。水銀の主な産地は、四国の大龍岳や伊勢の丹生の里だ。水銀や銅の鉱脈を歩く修験者は鉱毒による中毒に悩まされることがある。空海も晩年ヨウという腫れ物に悩まされた。
真言密教は即身成仏を最大の目的とするが、水銀には殺菌と防腐の作用があり、空海がその肉体を永遠のものとするために、仙丹(不老長寿の薬)としての丹生を服用していたとも言われる。古墳の石棺の内側に朱が塗られるのも、この防腐の作用を期待してのことだろう。
金銅仏を鍍金するために大量の水銀を必要としたが、奈良東大寺の大仏の建造の際には、塾銅73万7560斤とともに、メッキ用に金1万436両、水銀5万8620両、さらに水銀気化用に木炭1万六千六百五十六解が調達されている。この際に使用された水銀がすべて伊勢産でまかなわれていたかは不明である。伊勢産を含めた水銀や朱砂が交易品として中国にも輸出されていた。
古代の朱砂産出を意味する丹生という。丹生はニフ、ニブ,ニビ、ニホなど呼ばれ、通常には朱砂の産出をいう。丹には大きく朱(主として硫化水銀)と丹(主として四塩化塩)および緒(褐鉄鉱・赤鉄鉱・酸化鉄など)の別がある。このため、丹生は鉄産おも意味しニブやミブ、ニビ、ネウなどその音韻と表記に多様なバリエーションが生まれた。
千代田の古保利のすぐ隣には壬生という地域があり、壬生神社もある。建立に際し、壬生は丹生であり、高野山との関係を考えると、壬生神社から土地を譲り受けたのではないかとも考えられる。しかも、壬生は水銀の産地に関係した地名であり、更に近くには丹比という地名も残っている。丹比は現在タンピと読むが、ニビと読まれていたかもしれない。
その考えで、現在、壬生神社の神主の井上氏を訪ねたが、現在の壬生神社は鎌倉の鶴岡八幡宮の由来であり、元はこの地には、現在は別の場所に移っている大歳神社があったという。
古保利の貞観仏は、中央から来た仏師が一連の仏像を作ったと考えられる。中央から来た仏師が彫ったと考えられる理由は、造型のすばらしさに加えて材料が一木のすばらしいものを使っている事である。当時も地方の仏師には良い材料は使わせてはもらえず、地方仏師のほった仏像は節が多い粗悪な材料を使った物が多いという。加えて、四天王像などを見ると、その着けている鎧は将に当時の唐の時代の武士の装束であり、中国から渡来した仏師あるいは唐へ行ってつぶさに装束を見てきた者にしか彫れない物であるからである。
これをまとめれば、千代田の仏像は、中央仏師による地方で作られた仏像と考えるのが妥当ではないか。
当時、仏教は国家鎮護の色彩をにじませていた。凡氏は元々郡司であり、中央集権体制下の地方官であったが、平安時代後期に領地を厳島神社に寄進して壬生荘の荘官に転じている。領地を寄進することによって旧来からの支配権を維持するのである。
凡氏一族の凡家綱は、佐伯景広を介して平清盛に地主として志道領を寄進し、みずからは下司(げし)職に任じられた。こうして成立した志道原荘の本家は平氏、領家は厳島神社である。
山県郡の寺原荘内福光名内地頭給は、1243年までに凡氏女・高田高信から周防制多迦丸に譲与されている。幕府の政策を脅威と感じ、守護方と密接な関係を結ぼうとした。(権力の変更)
加えて、浄土宗、浄土真宗の興隆により、経済的支えを失った従来の宗派は経済的基盤を失い、門徒に支えられた新しい宗派に回想せざるを得なかったのではないか。1279(弘安2)安芸国山県郡古保利真言宗福光寺第二八世権大僧都円院慈教姓藤原氏齢七九にして安の荘高取長瀧寺ヶ窟に一宇を建立し円妙寺とする。(改宗)
例えば、現在の西本願寺別院も、元は天台宗の寺院であったという。
このような事情の重なりにより、古保利薬師は廃寺に到ったと考えられる。