- 本日のプログラム
- 会員卓話
「私の生い立ち」 - 卓話者
- 若木義人君
- 担当
- プログラム委員会
- 祝事等
- ・連続出席表彰(6名)
・27年連続者は11/28に表彰
・結婚記念日(9名) - 会長時間
- ・入会式(橋本哲充)
・次週カバナー公式訪問及びフォーラムのお知らせ
・フォーラム準備についてお願い
(各理事による活動報告・・RI会長賞への挑戦状況)
(会員満足度アンケート調査協力お願い)
・年次総会=次年度会長ノミニー・理事役員選任手法の決定 - 幹事報告
- ・BOX配布物の確認⇒会報9月号,ガバナースレター,蔭山武人会員よりイベントちらし
・蔭山武人会員イベントのご招待についてご案内
・次週はガバナー公式訪問例会及びフォーラムを開催(ご出席をよろしくお願いします。)
・創立記念例会のご案内を11/8にメール及びFAXにて送信済み
出欠回答を今週18日(金)まで!
・アンケートのお願い=迫田勝明理事(例会終了後提出) - 理事役員会
- ・本日例会終了後12階「カーネーション」にて理事役員会開催
- 委員会報告等
- ・職業奉仕委員会=禁煙例会・四つのテスト唱和(ロータリーソング終了後実施)
・出席委員会=出席報告 - その他
- バイキング例会
卓話時間
「生き延びる」
若木義人君
「生き延びる」
出身は安芸の宮島で母は対岸の大野町で私を出産しました。「宮島」は神の島、不浄なものはすべて島外へ、今も墓地はありません。
ところが実際にはこれほど開けた島はなく古く遡ると広島一の繁華街で海賊相手の売春宿や芝居小屋が数十件、軒を連ねていました。どうも歴史は違うのではと思います。
私は父親の仕事の関係で「呉」で幼、少年期を過ごしました。
早産だった為小児科での病名は一応すべてこなしました。その頃近所に当時は珍しい「空手」の道場ができ、近所の子供達が沢山入門しました。道場主は電気工事会社を経営しており、その合間に教授するという典型的な町道場です。糸東流という流派で今も空手は沢山の流派があります。後年所属した「極真空手」も今は三派に分かれ、なにがなんだかわからないのです。
極真や新極真、極真連合会、ただ強さのみは他流派より抜き出ています。
町道場には、三才から入門してその後は病気らしきものは遠のいていきました。母親はそんな訳で健康第一といつも外で遊べと云うも、勉強しろとは一度も云わなかった。中学入学後も教室にいることは少なく、その為不良と勘違いされていたようです。とうとう生活指導の先生方に目をつけられ放課後剣道部の先生や柔道部の顧問の先生方に体育館で十数回投げられ竹刀でめった打ちされ一週間ほど起きあがれなく十日近く休んでしまいました。今なら大変な問題となったでしょう。
十日目に学校へ行って柔道部の部室に先生を訪ね足蹴りを50本ほど入れ、その足で体育館の剣道部の先生を上段、中断、下段と蹴り込むと先生はブルブル震えながら応戦してきたので、その場を退散しました。学校からはなんのお咎めもなく、その後一人の教師は市議会議員に当選したようです。そして地方の高校へ進学したのですがその頃は立派な不良になっていました。同好の志が他校も含め私の周りに集まって来るようになりました。
小さな町に十数の組が乱立する呉は「仁義なき戦い」の本場です。一番仲の良かった同じ空手道場出身の「塔岡君」と二人で教室を抜け出し、呉駅前を歩いていたら呉で一番質(たち)の悪い「○○組員」が11人居たのでどちらが多く倒せるか競争しようと云うことになり、結果は彼が八名私はめっぽう強い腕の立つ者がいて三名。そのうち交番から警察官が4~5名走ってきて、彼はそれも倒して駅前の噴水池へ放り込んでしまい、「もう家に帰れん‥」と呟くように云うので「お前がやろう」と云ったじゃないか、おまわりさんのことは知らんぞ‥とうとう一緒に呉の山中にある「灰が峰」の防空壕へ三日ほど逃げ込み、そのうち腹がへってそれぞれの家に帰宅しました。
縁というのは面白いもので後年、広島に帰り社会人として就職しようと地元の中堅会社に面接に行くと、何と件(くだん)の手こずらせた組の若頭が社長の会社でした。「お前久しぶりじゃのう、すぐ入社しろ」と云われてそれから五年間お世話になりました。
高校卒業後上京して大学へはほとんど行かず空手道場の内弟子になり館長の言葉通り「道場では強くれないよ、実戦しろ」をそのまま実践して地回り相手のステゴロ三昧(素手のケンカ)の暮らし。先輩と蒲田駅西口広場で二十九人相手に乱闘これが大層な事件となり道場の風当たりが悪くなってとうとう北米へ、体の良い「島流し」にあい、僅かな所持金と往復チケットのみ受け取りボストンを皮切りにニューヨーク、ワシントンと三つの都市へ「空手」の支部道場作りに出かけることになります。
連日訪れる道場破りには些か閉口しましたが幸い「空手」を知る者はなく2メートルの巨漢と対戦し続け、必死で倒し続けました。
日本式ならば、他流試合は禁じられているとお断りも出来るのですが、断れば翌日から生徒は一人も居なくなります。已むなく対戦するしかなかったのが当時の事情です。そんな折り、参戦して(ヴェトナム)まだ勢いのあるワシントンで兵役募集があり、一年間ヴェトナムへ行けばアメリカの中の自分が希望する大学へ奨学金と学費、生活費を支給との謳い文句に乗って応募しました。
クリーニング アンド アドバンス(敵を排して前へ進む)で200名中トップとなり、ノースカロライナのフォトブラック基地で毎日、毎日がパラシュート降下訓練の生活。その後フィリピンの北部リンガエル湾(昔マッカーサーが上陸した所)の近くにラ、ウニオン、ジャングル戦訓練所へイフガロ族やイノカロ族と一緒に楽しい戦争ごっこ、素足でフンドシ一丁の彼らはいつも笑っていてあっと言う間のベーシックトレーニングが終了しました。
ヴェトナムでは主に北ヴェトナム、ラオス、カンボジアへ越境、情報収集、高級将校の狙撃、空爆支援などの非正規作戦が続き、その時私には四名の山岳民族(モン族やクメール族)ストライカーが付いていました。ある日、非合法的にカンボジアのクラチェに越境ホーチミンルートの写真撮影の為、カメラマンベストを着込み、ニコンFにサイゴンで買った日本製フィルムフジかサクラを準備して出発、絶対にコダックのフィルムは入れません。下着は福助のシャツとパンツ、胸のポケットには共同通信社の身分証明書を入れて部下の山岳民族のストライカーと潜入しました。使い慣れない重いニコンFは、シャッターボタンがボディーの後ろに付いてフィルム巻き上げレバーがギザギザのため長く使うと苦痛になります。
ある日、国境から5マイルの地点で敵と遭遇しました。その時ストライカー達の逃げ足がはやく、私だけが捕まって北ヴェトナムの前進基地へ連れて行かれたのです。そこにはすでに十数名の捕虜、皆身や形はカメラマン風や、一般人風AP,UPI,ロイター、AFP、タスと言った世界中の報道カメラマン?兵士は居なくカメラマンのオンパレードでした。本物はおそらく居ないのだろうと思いました。
木の蔓で拵えたロープで数珠繋ぎにされたカメラマンを一人づつ100m先の大木の前に立たせ、すぐさま銃殺。捕虜の為の食料や収容施設もない為、次から次へと撃っているのです。口々にジュネーブ条約がどうとか泣き叫ぶ者もおりパニック状態が続く中、ロシア製のAK-47アサルトガン(突撃銃)を連射しているのでした。銃口でごずかれて前に進んでいくカメラマン達‥‥
その時、連射して熱くなった銃口を意地悪くヴェトナム兵士が私の胸に押しつけました。胸が焼ける匂いがしました。昔、母が春の花見によく作った卵焼きの匂いの様でした‥‥
思わず「かァちゃん」と大声で何回も叫びました。兵士は私の声に驚いたのか後退りしました。かァちゃんの意味は兵士も知るところではないはずです。すると少し離れたテントの中から将校らしきノリとアイロンの良くきいた服装の身形の良い長身の男が近づいてきて兵士に何か言っているようでした。そして私に向けて「お前日本人か?」と日本語で話してきたのです。久しぶりに聞く日本語で、少し東北訛りだったと思います。
「そうです日本人です、共同通信社です」と答えました。すると自分は旧日本兵で、北ヴェトナムには100名くらいの旧日本兵がおり、終戦では帰国せずそのまま残ったのだと云うことでした。
名前は「シノダ」だったか「シノハラ」だったか私の記憶では曖昧で、今考えるとアメリカ兵がよくベトコンのトラップに掛かって重傷を負っていたのは、これは東北の「マタギ」の罠だったのでしょう。竹のバネを利用した足くくり罠や落とし穴、これは熊を捕る罠に似ています。実戦指導は日本人だと直感しました。彼は部下数人と私を国境近くまで送ってくれ、別れ間際に「もうくるな」と云ってくました。
本当は正体は解っていたのでしょう、優しい目でいつまでも私を見送ってくれたのです。
ヴェトナムは苦しい事ばかりではなく楽しいこともありました。サイゴンには大きな米軍基地があり、体育館、プール、テニスコート、ゴルフ場、あらゆる物と人が溢れて放送局まであり、そこでの生活は戦場と比べれば楽園です。その米軍基地の売店で知り合った女性がいました。父親はフランス人で母親は中国系ヴェトナム人、今流行の亜麻色の長い髪にグリーンの目、皆んな入り乱れてアタックしていました。彼女はなぜかフランス系なのに「グレース」と呼ばれていました。私は十七才のグレースと米軍基地の教会で結婚しました。彼女は私に「黒い瞳と髪が母と同じで大好き!」と云ってくれました。白人は皆、浮気者、彼女の父親もほとんど家に帰ってこないと‥大好きな母親と同じ髪の色をした日本人が特に親しく思ったのでしょう。しかし楽しいことは長く続かないもので米国への帰国命令を受け、一緒に帰国するつもりでしたが、母親や父親が心配だからヴェトナムで待っていると云うので、必ず帰ると約束をして一端帰国しました。確らず帰って来てと滑走路の傍らで泣いている姿をC-7輸送機の操縦席横の外がよく見える所で彼女をじっと見つめていると、離陸が始まると同時に滑走路脇を一生懸命走っている姿を今でもハッキリと覚えています。
戦局が厳しくなって、必ず帰るとの約束は反故になります。その後グレースは米軍協力者として銃殺刑となり、母親と父親は香港へ逃げて今も母親は九龍の土爪彎近くで健在です。この年になっても片時も忘れることができません。
今も極地戦やテロなどで、世界中の多くの尊い命が失われているのが現状です。我々ロータリアンは、世界中の仲間と連携して民間レベルの外交官として平和な環境を守っていかなければならないと考えています。