- 本日のプログラム
- ゲスト卓話
「大久野島毒ガス傷害研究会の歩み」 - 卓話者
- 広島都市学園大学 学長 河野修興氏
- 担当
- プログラム/会長
- 祝事等
- ・入会月会員(10名)
- 会長時間
- 最後の通常例会を迎えて(一言・・・)
日本人の平均寿命は年々延びて今や男性は80.50年、女性は86.83年になっています。
自分が歳をとってきたからということもあるのでしょうが、80歳以上の高齢者の多いこと多いこと、以前はまれだった90歳代の方もどんどん増えています。そして100歳超で元気に歩いて来られる方もちらほらお見かけしますが、残念ながら、100歳超になると80%以上が寝たきりというのが現実です。
ところで年を取ると言うことはどういうことでしょうか。「18歳」と「81歳」の違いを比較してみます。
・恋に溺れるのが「18歳」、風呂に溺れるのが「81歳」
・餅をつくのが「18歳」、餅を詰まらせるのが「81歳」
・道路を暴走するのが「18歳」、道路を逆走するのが「81歳」
・アタマが軽いのが「18歳」、アシが重いのが「81歳」
・オレオレと詐称できるのが「18歳」、オレオレと詐欺にあうのが「81歳」
・運転免許を取るのが「18歳」、運転免許を返すのが「81歳」
・これって常識ですか?が「18歳」、 ここって浄土ですか?が「81歳」
・近くしか見えないのが「18歳」、近くが見えないのが「81歳」
・羽目を外すのが「18歳」、階段を踏み外すのが「81歳」
・憧れを持つのが「18歳」、たそがれるのが「81歳」
・若気の至りの「18歳」、薄毛の名残の「81歳」
・年収が気になるのが「18歳」、年金が気になる「81歳」
・専業VS兼業で戦っているのが「18歳」、 アメリカと戦ったのが「81歳」
・不倫に溺れるのが「18歳」、風呂で溺れるのが「81歳」
・しつこいくらい覚えているのが粘着「18歳」、昨日のことさえ覚えていないのが「81歳」
まだまだありますが、セクハラになりますのであとは個人的にこっそりとお教え致します。
さて、超高齢化がどこまで続くのかは不透明ですが、100歳=100年という時間がわりと身近に感じられるようになってきたことは事実です。まだ10代の頃、歴史で明治維新を学んだ際にそれはまさしく歴史であり、自分につながる感覚は微塵もなかったのですが、今、100年を振り返ると以前とは違った感覚で歴史を感じることができます。
今年は西暦2016年、100年前は1916年、世界は第1次世界大戦の真只中で、ヨーロッパを舞台に同盟国側(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア王国)と協商国側(イギリス帝国・フランス共和国・ロシア帝国)の2大陣営にわかれ、1914年から1918年にわたる国家総力戦を戦い抜いていました。日本はイタリア王国やアメリカ合衆国とともに協商国側に立って参戦し、1919年1月のパリ講和会議で、アジア太平洋におけるドイツ領土であった山東半島青島の権益と赤道以北の南洋諸島パラオ、マーシャル諸島などの委任統治権を譲り受けました。
この対戦は、1917年のロシア革命、1918年のドイツ革命を引き起こし、同盟国側は内部崩壊して、協商国側の勝利のうちに終結しました。終戦処理はパリ講和会議で行われましたが、この大戦を機に多くの世界史的な難題が発生し、1929年~1933年の世界大恐慌を経て、1939年~1945年までの6年間に及ぶ第二次世界大戦に行き着きました。
4年後の2020年は東京オリンピックが行われる予定の年ですが、あれほどリオに行きたかった舛添東京都知事もついに辞職に追い込まれました。ニューヨークタイムスでも“せこい”が“つなみ”と同様に立派な日本語英語としてつかわれ、世界中で有名になったことは日本人として、誠に残念至極というほかはありません。
このように4年後の日本の姿、世界の姿さえ予見することは難しいわけですが、とんでもない事態になっている可能性を否定できません。さらに今から100年後には日本は、世界はどうなっているのでしょうか?
100年という年月は過ぎ去ってしまうとそれほど長いものではないようです。しかし、過ぎ去った100年間を振り返ると世界の変わりように愕然としてしまいます。一人の人間として対応することができる限界を超えているような気が致します。(引用:吉田良順、広島県医師会速報、2016年5月15日号) - 幹事報告
- ◎100万$食事(幹事告知)
◎BOX配布物の確認
①次年度理事役員会議事録・7月プログラム
◎回覧物
①次年度在広RC会員名簿校正原稿(各自チェックのお願い)
②地区大会出欠表(6/24締め切り)
◎次週例会について
次週は、昼の例会を夜に変更して最終夜間例会を半べえにて、18:30から開催します。(時間を間違えないようお願いします)
※最終夜間例会のプログラムについて
①理事役員退任挨拶
②ホームクラブ100%出席賞
※懇親会では点鐘の引継及び新会員歓迎会を行います。
推薦者及び各同好会担当者はよろしくお願いします。
◎理事・委員長各位
退任挨拶原稿を早めに事務局へお送り下さい。 - 理事役員会
- ◎本日18:30~「旬魚きっ川」にて第2回ファイヤーサイドミ-ティング開催
- 委員会報告等
- ◎出 席 : 出席報告
◎ロータリー財団委員会 : 愛のコイン箱
◎国際奉仕 : 古切手類収集
◎2016年カンボジア健康診断調査報告
◎広島市立広島特別支援学校への清掃用具寄贈
卓話時間
ゲスト卓話
「大久野島毒ガス傷害研究会の歩み」
第4代大久野島毒ガス傷害研究会会長
広島都市学園大学学長 河野修興氏
広島東RC所属
抄録
「地下鉄サリン事件」は、平成7年3月20日、東京都帝都高速度交通営団でオーム真理教によってなされたものである。すでに20年以上が経っているが、記憶に新しい。
毒ガスの歴史を紐解くと古代に至る。トリカブト、砒素、亜硫酸ガス、松ヤニなどを燃やして使ったと考えられている。特に有名なものとして、ギリシャの火と呼ばれているものがある。7~10世紀にビサンティン帝国がイスラム帝国に対して用いたものである。
その後、産業革命による工業技術の爆発的な進歩を背景として、第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア、イタリア、イギリス、フランス、ロシアなどが毒ガス兵器を実際に使用し悲惨な状況をもたらした。
わが国では、昭和2年の陸軍大臣通達により兵器としての毒ガス製造が決定された。昭和4年から敗戦までの16年間作製されていた。広島県竹原市の大久野島あった東京第二陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所においてである。
大久野島は現在、ウサギの島としても有名であり平和の象徴として多くの外国人も訪れる保養地になっている。竹原市忠海町の沖合い3キロメーターにあり、周囲4.3キロメーターの小島である。作戦上、昭和初期から敗戦まで、わが国の地図から消されていた島としても有名である。大久野島における毒ガス製造は軍事機密であったので詳細は不明な点も多いが、陸軍の軍人・軍属と戦後処理に携わった一般人の計7000人くらいが、これに関係していたと考えられている。
戦後は進駐軍の占領下にあったため、この毒ガス工場およびそこで働いた人々の情報は健康被害を含めて全く知られていなかった。昭和27年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約によって、初めてその調査が可能となり、昭和27年7月8日~8月2日の間に、広島大学(当時、広島県立医科大学)第2内科の初代教授であった和田直先生たちが、計5回、旧従業員210名の健康診断を実施した。
その後、和田直初代教授や西本幸男第2代教授、山木戸道郎第3代教授たちは、教室の総力を挙げて、公的な支援もないままに毒ガス障害者の救済活動に邁進し、昭和36年には、大久野島毒ガス傷害研究会を立ち上げた。当初は、皮膚科学教室、耳鼻咽喉科学教室、病理学教室など多くの教室が参加していた。彼らの努力が報われ、国、県、市町などの認識も高まり、昭和49年からは、毒ガス障害者の救済事業やその健康障害の研究費などが、国から支弁されることになり、多くの毒ガス障害者の方の健康管理や救済活動に多大の貢献をすることができるようになって、現在に至っている。この間、財務省・厚生労働省などの国、広島県、竹原市など自治体や毒ガス障害者の作る団体などの協力・救済の輪による社会貢献であったことは疑う余地もないことであり、関係各位に心から感謝している。
最も有名な毒ガスは、サルファー・マスタード(別名、マスタード・ガスあるいはイペリット)であり、皮膚や粘膜に爛れをもたらすため、びらん性ガスに分類されているものである。サルファー・マスタードが元になり、現在では、ナイトロゲン・マスタードやシクロホスファミド、メルファランなどの有力な抗がん剤が作られていることも紹介しておきたい。
戦時中、あるいは、戦後早い時期に旧従業員が負った障害の詳細については、全く不明であるので、健康診断を開始してからの健康被害に関して紹介したい。最も特徴的な障害は、膿性の痰を大量に喀出する慢性気管支炎である。健康診断を受けた旧従業員の80%近くが、膿性の喀痰を示していたのである。悪性腫瘍としては、肺がんなどの気道がんの発症率が、対象国民に対して非常に高率であることを報告してきた。
最近明らかにしたものであるが、疫学的手法を使ってイペリット作製に従事した旧従業員の肺がん発生リスクを検討したところ、イペリット工場で1年間働くと、2~5年肺がんの発症する年齢が早くなることがわかり、American J Epidemiology 173:659, 2011に発表した。興味のある方にはお目通しいただければ幸いである。
毒ガスは恐ろしいものである。地下鉄サリン事件も私たちを恐怖に陥れた。しかし、現在でもほとんどの国がこの毒ガスを作り続けていることを忘れてはならない。わが国も例外ではないのである。