- 本日のプログラム
- ゲスト卓話「通り御祭礼」について
- 卓話者
- 広島東照宮 宮司 久保田訓章 様
- 担当
- プログラム
- ゲスト
- 広島東照宮 久保田様お付き沿い
- 祝事等
- ・入会月(10名)
・創業月(3名) - 会長時間
- 徳川家康に学ぶ
皆さんこんにちは。お客様、ゲストの皆さん、ようこそおいでくださいました。ゆっくりと楽しんで頂きたいと思います。
さて、今年は徳川家康400回忌の年でございます。日光東照宮では「400年式年大祭」とそれを奉祝する種々の行事が行われています。
本日は、二百年ぶりに正式復興しました、広島神輿行列「通りご祭礼」について広島東照宮宮司 久保田訓章様に卓話をして頂きますので、広島での奉祝行事についてお聞きします。
さて、本日のテーマ「徳川家康」にちなみまして、「徳川家康に学ぶ長寿の秘訣」について紹介させて頂きます。
織田信長49歳、豊臣秀吉62歳、徳川家康75歳。天下取り三武将の享年です。 265年続いた江戸幕府の基礎を築いたのは徳川家康です。日本人の平均寿命がわずか37~38歳であった当時、70歳を超えて生きることはたやすいことではありません。上杉謙信49歳、武田信玄53歳をみていた徳川家康は、堅実な性格そのままに、日ごろの健康管理においても十分注意を払い、前向きな人生観と「早寝早起き、粗食」を常としていたと言われます。
家康が長寿だった理由として、まず質素な食生活ですが、主食は麦飯と豆味噌で、質素ながらも栄養豊富でした。家康の麦飯は、丸粒の大麦に胚芽やぬかの残った半つき米を混ぜたもので、ミネラルや食物繊維が豊富で便通も良くしました。この麦飯が、家康の長寿の源であったと言われています。
そして、食べ物には必ず火を通し、生水は飲まず、野菜や果物は旬のものにこだわったようです。
又、家康は鷹狩、薬作り、と多趣味で晩年まで続け、ストレスを上手に発散していました。たとえば剣術、水練、馬術等で良く体を動かし、「論語」「中庸」「史記」「漢書」「六韜三略」「貞観政要」「延喜式」「吾妻鏡」などを愛読し、知識を積極的に取り入れていた、と言われます。
また、家康は現在でいう健康オタクで生薬にも精通し、自分で調合していたと言われます。そして「鳴くまで待とうホトトギス」と呼んだという逸話がある程、安らかに心に余裕のある人物だったと言われます。
「誰よりも長生きをして元気で頑張ろう」という「生への限りない執着心」や心の持ち方が長寿のコツであったようです。
(出典 ロータリーの友、VOL63、No11、pp58、2015) - 幹事報告
- ◎100万$食事(幹事告知)
◎BOX配布物の確認
①R財団認証推進案内
◎次週11/23例会について(祝日のため例会は無し)
◎次回例会について
11/30(月)18:00~リーガロイヤルホテル広島で創立37周年記念例会・
懇親会を開催(開始時間を厳守!!) - 委員会報告等
- ◎出 席 : 出席報告
◎ロータリー財団委員会 : 愛のコイン箱
◎国際奉仕 : 古切手類収集
◎青少年奉仕 : RYLA参加報告
卓話時間
ゲス地卓話
「通り御祭礼」について
広島東照宮宮司 久保田 訓章氏
平成27年10月10日、東照宮400年祭を機に広島神輿行列「通り御祭礼」が200年ぶりに正式復興されました。
広島東照宮は江戸時代の初め慶安元年(1648)、広島2代目藩主であり、徳川家康公の外孫であった浅野光晟公により、広島城の鬼門守護として、今の東区二葉山山麓で安芸の小富士(似島)が真正面に望める地に建立されました。城下町のどこからでも望めたそうで、当時の記録には「毛利氏築城以来最も華麗な建物」との記述があります。
改めて申し上げるまでもありませんが、御祭神徳川家康公は、百年にも及ぶ戦国乱世を治め、我国に260年もの長きにわたる平和の時代をもたらした人物として国内外に評価されています。
広島では元和2年(1616)の家康公薨去後50年毎に、東照宮所蔵の大神輿を中心とした2000人の大行列「通り御祭礼」が、東照宮を出発し、猿猴橋、京橋を渡り、南に折れ、今の本通り筋を西に向かって元安橋を渡り、廣瀬神社に達する約5キロメートルを渡御しました。この様子は広島の地誌「知新集」に詳しく記され、藩士や町民参加のもと町方からは数台の石引台(山車)が参加、「行列を見んと幾十万の人が詰めかけ云々」との記録があります。
しかし、「通り御祭礼」は文化12年(1815)の4回目以降は、幕末の混乱(5回目)、第一次世界大戦(6回目)、原爆による被害(7回目)のため行われませんでした。
そこで平成10年、広島東照宮創建350年記念として、1900年代一度も行われなかった空間を埋め、伝統を継承するため、広島の財界・市民を中心とした実行委員会を組織。実行委員長には当時の広島県商工会議所連合会会頭である橋口收氏に就任頂き斎行された神輿行列は、予想を遙かに超える5万人もの人が集まり、感動を呼びました。
今回は、50年に一度斎行される本来の正式な「通り御祭礼」として、出来るだけ忠実に伝統を守りながら、現代において相応しい形での実施を目指し、準備には凡そ3年の月日を要しました。実行委員長には広島県商工会議所連合会の深山会頭に就任頂き、また、この祭礼は平和な時代にしか行うことの出来ない平和の祭典であるとして、広島市の被爆70年事業としても取り上げられました。
当日の行列には、重さ約1トンの大神輿(原爆に依り、東照宮の本殿・拝殿は全焼しましたが、この神輿は奇跡的に焼失を免れ、現在は広島市の重要文化財に指定されています)、高さ4メートルを超える花車が再現されるほか、花田植や子供歌舞伎などの伝統芸能が披露されるなど550人以上が参加。11時に東照宮を出発、饒津神社にてお旅所祭を斎行し、14時に還御しました。天候にも恵まれ、7万人以上の観客に見守られながら無事盛大に執り行うことができました。このことは、奉賛各社、県民、市民、
行政、お祭りに関わって下さったすべての方々のお蔭と感謝申し上げます。
広島、特に広島市内は原爆により全てが焼き尽くされた歴史があり、まるで戦後に生まれた町のような印象を持たれることがあります。しかし、実際には毛利氏築城以来400年以上の歴史がある立派な城下町です。今回の復興が、このような歴史に県内外の人が改めて興味を持ってもらうきっかけとなり、広島がさらに魅力ある街として育っていく一端を担えたらと祈念しております。