- 本日のプログラム
- 新会員卓話「自己紹介」
- 卓話者
- 粟井孝二君
- 担当
- プログラム
- 祝事等
- ・連続出席表彰(2名)
・結婚記念日(4名) - 会長時間
- ◎今月は、ロータリー理解推進月間 です。
会員にロータリーについて知識と理解を一層深めてもらい、同時にロータリアン以外の、一般市民にもロータリーのことをよく知ってもらうためのプログラムを実施する月間です。
私達ロータリーは、世界の平和と、人々の間のより良い理解の為に働く組織である、というロータリーの目標をよく理解していることが肝要です。そして私達の周りの人々に機会あるごとに、ロータリーを知って貰う努力をしていきたいものあります。
ロータリーの創始者ポール、ハリスは、1947年1月27日に、享年78歳でシカゴの自宅で亡くなっています。正式の名前は、ポール パーシー ハリスと言いますが、ポール ハリスと呼称し ます。来週はポール、ハリス追悼週間でもあります。 - 幹事報告
- ・次週例会終了後第2回クラブアッセンブリー開催、出席者は事業計画書を持参
- 理事役員会
- ・本日例会終了後12階「ライラック」にて次年度第2回理事役員会開催
・本日18:30より33階「リーガトップ」にて第2回クラブ研修セミナー開催 - 委員会報告等
- ・職業奉仕 : 禁煙例会・四つのテスト唱和
・出 席 : 出席報告
卓話時間
新会員卓話「自己紹介」
粟井孝二君
私は昨年の8月4日に緒方先生と鳥井さんのご推薦をいただき、広島中央ロータリークラブに入会させていただきました粟井孝二です。今日は自己紹介をする貴重な時間を与えていただきましたので、私自身の事と家族、そして会社の紹介をさせていただきます。
よろしくお願い致します。
田舎育ちの私が少しづつ故郷から離れていった経緯と、バレーボールが今の私の人生にどうかかわったお話できればと思います。
私は1958年(昭和33年)6月27日、父博明、母愛子の二男として、父が国鉄職員であった関係で広島鉄道病院で生まれました。四千グラムのビッグベイビーでした。三才まで虫歯一つない健康優良児だったようです。実家は広島市安佐北区安佐町の久地で太田川沿いの自然の中で育ちましたので鮎やうなぎを買って食べるのは今でもちょっと抵抗があります。
兄弟は三つ上の兄と六つ下の妹がいます。兄は松江市、妹は山口市に住んでいます。
25年前に父親が血液の再生不良の病気で63歳で他界してからは今年83歳になる母が毎日のようにグランドゴルフを楽しみながら一人で暮らしています。
私は義務教育を終えるまでは地元の学校に通いました。小学校は五年生の時廃校となり六年生の一年間は少し離れた学校へバス通学となりました。中学校は統合され町内に一校しかなく現在は廃線になっているJR可部~三段峡線で通学していました。この時期に安佐町は沼田町に継いで広島市と合併し、私の故郷も広島市内と言えるようになりました。もちろん上下水道は今でも不通のままですが、1972年(昭和47年)の中学二年生の時ミュンヘンオリンピックでバレーボール男子が金メダルを取り、バレー部に所属していた私は高校へ進学して強いチームでバレーをやりたいと思うようになりました。
たまたま見た新聞に高校総体の結果が出ていて決勝で崇徳高校が舟入高校に勝ち、両校がインターハイへ出場となっていました。公立志望の私は迷わず舟入高校を第一志望に受験する事に決めました。親に何の相談もせず決めて後でびっくりしたのは、私が将来の事を考えて広島大学に入り学校の先生か医者になると思っていたようで、まさかバレーをするために受験したとは思ってもいなかった様でした。実家から舟入までに通学に2時間半位かかり入学時広大合格ラインにあった成績はみるみる急降下する事となりました。舟入高校は当時二年連続のインターハイ出場を目指して毎日の様に崇徳高校へ練習試合に行っておりその年の県総体は決勝で崇徳高校に勝ち二年連続のインターハイ出場を決めました。
レギュラーではありませんが、一年目で福岡県直方市での全国大会へ行くことができました。
1975年(昭和50年)高2の冬の二月、父が体の不調で大学病院の原医研に入院していたのですが、母が覚悟しておきなさいという程、生死をさまよい一命は取りとめましたが、病院との長いお付き合いの始まりとなりました。
この年の5月私も生まれて初めて右足甲骨の疲労骨折で新チームでレギュラーになったのですが、全治一カ月の診断で松葉杖の生活となってしまいました。高3の時県ベスト4に入り中国大会迄行きましたが、県総体は呉商に敗けベスト8で三年間のクラブ活動を終えました。
父の病気の事もあり大学は県内と決めていましたが、広大は既に手の届かない状態で広島修道大学へ進学しました。大学でのサークルはバレーボールは全く考えていませんでしたが、結局四年間バレー部に所属しました。そのOBで崇徳高校出身の方がグリークラブの南一誠さんと友人で私が後に南一誠さんと知り合うきっかけとなりました。
大学卒業後、父は公務員になってほしかったようですが、私はご縁のあった明星ゴム工業(現ミカサ)に就職しました。この頃の父は病状も安定し、社会復帰も果たし国鉄を五十五歳で定年退職し、興銀(現ミズホ)へ再就職していました。私は入社一年目の年末に大阪営業所への転勤を打診され、二十代を大阪で過ごすこととなりました。1986年(昭和61年)28歳の時父の病状が悪化し兄からの連絡で和歌山の出張先から血小板の輸血に大学病院に向かいました。このごろから父の病状は少しづづ悪化して行った様に思います。広島にはもうプライベートなこと以外で帰ることはないと思っていた矢先の出来事で、父は私が独身でいる事も心配していた様でこのとき私は30歳までに広島で嫁さんを探そうと思いました。故郷が同じ方が、移動も楽だと思ったからです。
1988年(昭和63年)6月30歳の時友人の紹介で知り合った兵庫の短大を卒業して関西に友達の多い現在の妻との結婚が決まりました。彼女も大阪での暮らしには全く抵抗はなかったのですが実は彼女は広島市内で会社を経営する社長の長女で、当時の大阪営業所の所長もその事を心配しておりました。私が社会人になって公私とも大変お世話になった上司でミカサの社長から国内の営業を全て任されている程の人物でした。広島に帰ることはないと思っていた私は広島で全く異業種の会社で再スタートすることになりました。
家族の紹介をします。妻、佳代子51歳、保育士の資格がありパートで近くの幼稚園に勤めて7年になります。長男、俊貴25歳、広工大を卒業し現在家を出て東広島の会社に勤務して3年になります。
長女真帆21歳、会報で私を紹介してくれました。安田女子大3年生就活が始まります。
二女.佳穂19歳IGL学園一年スポーツ医療分野で国家資格の習得を目指しています。
三女.光希16歳県立高陽高校2年、バレーボール部身長168センチエースアタッカーとして練習に汗を流しています。子供たちは長男が硬式野球、三人娘は世界の名セッター猫田選手の母校の小学校に通った影響か三人ともバレーボールを長女は大学まで二女は高校まで続けました。体育会系のところは私のDNAが効いているのかもしれません。
最後に私の会社について少しお話させていただきます。今年で創立49年目を迎えました。8年前に他界した私の妻の父親が起業しました。播磨重機工業の会社名は播磨は名字を付けたもので重機は、よくレッカー会社と間違われますがレッカーは所有しておりません。南区の仁保新町に本社ビルを構え、廿日市市と庄原市に製造工場熊野町に関連会社があります。創立当時からセメント関連設備の設計製作施工メンテナンスを主な事業としていましたが、山陽新幹線、山陽自動車道などが整備され平成に入ってからは、環境関連設備の下水汚泥処理やごみの焼却場から出る灰処理の機械製造、リサイクルセンター内の搬送機械製造、などが主な事業となっています。
以上ほとんど私の履歴書の様になってしまいましたが、私は、AO型人間で母方の祖父のDNAでお酒とは友達で、10年前にソフトバレーも始めました。
今の会社に入ってから始めた一応趣味としているゴルフは左利きの私ですが、今から右に変えてもいいのではと思うくらいの実力です。私は広島中央ロータリークラブに入会させていただいたことを感謝しております。ロータリアンとしてはまだまだ未熟でご迷惑をお掛けする事も多々あると思いますが、
今後ともよろしくお願い申し上げます。