- 本日のプログラム
- クラブフォーラム(国際奉仕)
「トルコ・チャナッカレ大学との交流について」 - 卓話者
- ひろしま国際センター元専務理事 越智正紀 氏
- 担当
- 国際奉仕
- 祝事等
- ・会員誕生日祝(6名)
・配偶者誕生日(3名) - 会長時間
- ・ロータリーの友2月号紹介(世界理解月間)
ロータリーの友 1月号から
1月はロータリー理解推進月間です。この号をすでにお読みになっておられる方が多いと存じますが、この号にはRI戦略計画委員である南園パストガバナーが「長期計画」から「戦略計画」へと題して寄稿しておられます。それによると「RI長期計画」の日本語訳が昨年11月から「RI戦略計画」へ変更されています。内容に関する変更はないのですが、日本語訳が変わったに過ぎないようです。しかし今まで日本では戦争のイメージが鮮明になりやすい戦略を避けて「Strategic Plan」を日本人の心情を考慮し今まではあえて「RI長期計画」としてきました。
しかし時代の流れから、戦略という文字は今では種々の場面で用いられ、事実小生も“難病の治療戦略”など日常的に使用しています。確かに言葉の意味するところは先鋭的に聞こえ、また実行するうえでもよりインパクトが感じられます。
しかしことロータリー活動でこのような言葉にすべきか、奉仕の精神を目的とするRI自体がStrategyなる言葉よりももう少し気の利いた言葉がない物か考え直して頂きたいところです。日本語では長期計画の方がしっくり行くよう感じが小生はしています。皆さん方はどのようにお考えでしょうか。さてこの戦略計画は以下のように書かれています。
時代の変化に対応できる、また各クラブにおいては柔軟性と刷新性、自主性ある活力あるクラブ運営を行い地域社会や国際社会の要求にこたえるような活動をすることが目標である。根底には「超我の奉仕」の下に「親睦」「奉仕」「多様性」「高潔性」「リーダーシップ」の5つの中核的価値観をロータリーの理念として奉仕活動を実践してゆく必要性があるとしています。すなわち「理念なき実践は暴挙であり、実践なき理念は空虚である」とし理念と実践を一体として活動すべきとしています。
以上小生の感想を含めてRI戦略計画の根幹について紹介しました。 - 幹事報告
- ●BOX配布物の確認
(1)雑誌類=ロータリーの友誌・ガバナーズレター
(2)臨時理事役員会議事録
(3)「エコ・ドリーム運動」1月分取組表
( 4)広島特別支援学校周辺駐車場地図
●回覧物
(1)2012-2013年度版ロータリー手帳注文書
(2)米山学友会継続会員リスト
(3)合同ゴルフ出欠回答表
●米山学友会の年間会費について
3月会費にて徴収
継続会員の方で取消に変更される場合は事務局までお知らせ下さい(継続会員リスト確認)
尚、新会員の方には新規にご案内をさせて頂きます。 - 理事役員会
- ・例会終了後1F「コルベーユ」にて第8回理事役員会開催
- 委員会報告等
- ・出 席 : 出席報告
・人間尊重・社会奉仕 : 「エコ・ドリーム運動」1月分取組表作成
・親 睦 : 家族会アンケート実施
卓話時間
クラブフォーラム ( 国際奉仕 )
「トルコ・チャナッカレ大学との交流について」
ひろしま国際センター元専務理事 越智正紀 氏
1.トルコ・チャナッカレ3月18日大学との関わり
平成7年頃、ひろしま国際センター(HIC)へ、トルコの「トロイ遺跡」の隣町チャナッカレ市にある国立大学の日本語学科長(日本人)からカレンダー送付依頼が届いた。トルコと日本の交流100年を記念して日本語学科が開設されたが、日本の情報が皆無のため、日本の風物、風俗、習慣などが掲載されているカレンダーを送って欲しいとの依頼。これに呼応して、広島に居住する留学生用に企業からいただいたカレンダーの一部を送付した。以降毎年続けて送付。大学では一般市民にも公開し「日本のカレンダー展」を開催、好評の中恒例化している。
平成10年、HIC設立10周年記念旅行団をトルコに派遣、大学を訪問し学生と交流。翌年から同大学卒業予定者数人が「松下財団」の旅費支援のもと日本研修旅行を開始。その際、HICで日本語研修、ホームステイーを実施。又本会が歓迎会を実施することが恒例化している。
2.親日国トルコ
トルコと日本の友好関係の原点は、1889年のエルトウ―ルル号の日本訪問及び遭難事故にある。時の明治政府に対するオスマントルコ帝国からの使節団が、帰路紀州沖で台風に遭遇、軍人、乗組員等600人弱が死亡。生存者69人を明治政府がトルコへ送り届けたことから、トルコは有数の親日国となった。この背景には、不凍港を求めて南下戦略をとるロシア帝国を共通の敵とする明治政府とオスマントルコ帝国の外交戦略があった。実際に、1904年に勃発した日露戦争の際、ロシア帝国は黒海のロシア艦隊を地中海経由で日本へ向かわせようとしたが、オスマントルコ帝国はトルコ領(ダーダネル海峡)の通過を拒否。そのためロシアは遠くバルチック海から艦隊を移動させることとなり、それが日本海海戦での日本の勝利の一因ともなった。その後オスマントルコ帝国が崩壊し、トルコ共和国が誕生した際、明治政府の行った諸政策をモデルとして国づくりが行われている。