- 本日のプログラム
- 会員リレー卓話No.9
チョット薹の経った新会員卓話
「私の通ってきた道」 - 卓話者
- 吉川修平君
- 担当
- プログラム
- ゲスト
- RI第2710地区 佐々木がバー補佐
杉川ガバナー補佐付幹事 - 祝事等
- 結婚記念日( 5)名
- 会長時間
- ・グループ7ガバナー補佐 佐々木様及び補佐付き幹事杉川様よりIM開催協力の御礼挨拶
・天候が変わりやすい季節、体に十分気を付けましょう
・広島西RC創立40周年記念式典に会長幹事出席報告、当日3名入会と聞き及び当クラブも会員増強の強化をしたい
・RI及び地区関係各賞申請につき努力したい
・国際大会のご案内 - 幹事報告
- ●BOX配布物
(1)理事役員会議事録/4月例会プログラム
●RID3690地区(韓国)姉妹地区地区大会のご案内
日程4/16(金)・17(土)
旅行行程等詳細は掲示板をご参照下さい。
申込締切は3/12(金)です
●「プロ野球交流戦観戦のご案内」について
3/4付案内を封書にてご自宅宛送付済み、締切3/15を厳守のこと
(出欠リストを回覧・・決定している方は記入してください) - 理事役員会
- ・例会終了後1F「コルベーユ」にて第4回次年度理事役員会開催
- 委員会報告等
- ・SAA : 本日は指定席(誕生月別)
・職業奉仕 : 四つのテスト唱和&禁煙例会
・出席 : 出席報告
・プログラム : 会員リレー卓話の演題は準備の都合上早めにお知らせ下さい
・人間尊重、社会奉仕 : 「エコ・ドリーム運動」2月分及び11月~2月延べCO2削減量集計報告(杉の木248本分)、IMでの評価アンケート結果報告
・ロンガルス絵画同好会 : 定例研修会のご案内
卓話時間
会員リレー卓話No.9
薹の経った新入会員卓話
「私の通った道」
吉川修平君
薹の立った新入会員
「私の通った道」吉川修平
6年前、新入会員の時卓話のご指名がなく、ここまで伸び伸びになっていましたことをお詫び申し上げます。
私は今年6回目の年男を迎えています。もうこんなに来てしまったのかと、自分でも感慨にふけることもあります。72年のうち丁度半分の36年間はマツダ(東洋工業)でのサラリーマンでした。その中で最も華やかな活動をしていた頃のお話しからさせて頂きます。
(1)優秀マツダマン表彰式典担当の頃
車の販売は商品が第一で、営業マン、サービスマン、パーツマンの活躍がこれに次ぐ重要なポイントです。年に1回その年活躍した優秀マツダマンを一堂に会して表彰式典を新しい目標に向かっての決起大会が開催されます。
優秀マツダマンと街のモータース屋さん(販売協力店)を加え3,000人を超える規模で3回に分けて実施していました。開催場所宿泊先も分散して行っていましたが、新高輪プリンスホテルに飛天の間が完成、式典、パーティー、宿泊を一貫して出来る設備が整い、丁度担当となったとき、ここで実施することになりました。
これまでの司会進行はテレビでおなじみの徳光さんや露木さんにお願いしていましたが、「手づくりの式典にしよう」との山崎社長のご指示もあり不肖私が「3時で会いましょう」で人気の山沢じゅんさんにアシスタントをお願いして司会者となり、優秀マツダマンへのインタビューもかなり突っ込んだ話を1,000人の会場のみなさんに聞いて頂き講評のうちに4年間継続しました。
式典の後のパーティではピンクレディー、松田聖子、ジュディオング、石川さゆりさんらのステージもあり、そのステージを見るために1年間頑張ったという営業マンも結構いました。また販売協力店の皆様方は藤本義一、三遊亭円楽、小沢昭一、森重久弥さんの肩の凝らない講演の後、松尾和子、浅野ゆう子、島倉千代子、小林幸子、水前寺清子さんらのショーに大いに盛り上がりました。こんな華やかな表彰台は望んでもなかなか登場できないことですし、いまの一介の料理屋の店主の身からすれば夢のような時期でした。
(2)マツダオート岡山時代
販売会社マツダオート岡山の社長としての出向の辞令が出て着任しましたが業績の良い会社には出向させてもらえず、どちらかと言えば業績が低迷し赤字基調で戦力弱小と言える状況でした。3年掛けての改善計画を立て、先ず市内の比較的良い場所に空き倉庫を借りて第展示場に改装し訪問販売から店舗販売への過渡期でもあり「商業建築」という専門誌にも掲載されるような話題性のある拠点に集客活動をして弱小のセールスマンにいつでも販売できる体制づくりそして販売効率のアップをはかりました。また各拠点もトイレ、ショールームを改装しトップセールスにも積極的に取り組みました。その結果4年後にマツダ本社の販売会社表彰では最高の賞である「経営優秀賞」を会社始まってはじめて受賞し、ヨーロッパ旅行に招待されました。このころ岡山後楽園ロータリークラブが誕生することになりチャーターメンバーとしてチャーターナイトの実行委員長も務めさせて頂きました。この行事は新しいクラブの一体化推進に大いに役立ちました。
(3)郷心会時代
やっと販売会社がよくなりかけたと思いきや今度はバブル崩壊によるマツダ本社不振ということで、広島県商工会議所連合会によるマツダ支援の動きが出来て県産品愛用運動として郷心会のなのもとマツダ車の地元シェアのアップを図るため、各商工会議所に郷心会を支援するために辞令が出ました。
商工会議所の会頭の一人がその地区郷心会会長に就任ということが、橋口商工会連合会長から示され広島の場合は戸田工業の松井五郎副会頭がご担当になりました。ロータリー歴ではこの地区のパストがバナーでもあり、とても魅力的な方でお亡くなりになるまでお付き合いをさせて頂きました。私を入れて3名のスタッフが広島商工会議所の小さな一室を借り受け活動を開始。広島に近い方は順調に動きが進みましたが備後地区では「なんでマツダを支援しなければならないの」という風潮が強く三原などは地元の三菱があるとのことで、このお話しを三原商工会議所の専務にするため16回も足を運びました。和田社長の話ですとこのことが十分予測されたので備後地区出身の君を呼び戻したとのことでした。
1年かけて商工会議所の一室に郷心会を設立いつの間にか130人のスタッフにふくれあがっていました。そして2年からそれなりの成果が出始め、シェア上昇ということで中国新聞などにもとり上げられました。このころから定年後のことも考え、永年の夢である料理の仕事をしてみたいと中国新聞経済記者に話したら、それがコラムに「夢は料理店経営」として掲載されよく見るとすぐそばに杉本クリニックの広告がありこの頃から杉本先生とは、赤い糸で結ばれていたような気がします。
(4)マツダから旬魚きっ川へ
定年を迎え、ある商工会議所から専務理事就任依頼のお話しがあり、また備後地区の模型ヘリコプターで世界シェア70%を誇る企業の副社長への要請があり心が動かされましたが、初心貫徹平成10年8月に旬魚きっ川を開店現在に至っています。料理も当初よりは随分進化していると思うのですが、これも皆様方のお陰、活きの良さと心を込めた料理を心がけていますので、一層のご支援をお願いいたします。
(5)私の生い立ち
福山市の松永出身で家業は老舗料亭。子供の頃から板場の中で育ちました。塩田、下駄、花むしろ(い草)の産業が栄えこれらのオーナー経営者である備後旦那集を相手に祖父は良い商いをやっていたようです。国民学校に入りましたがすぐ終戦で小学校になりました。こそでこの前まで当クラブにいた生田義和君と出会い高校3年まで机を並べていました。
大学は私には不釣り合いな学習院大学、すでに現天皇はご卒業になっていましたが学校の諸行事には皇太子としてご出席され後輩の私たちも良く話しかけられていました。岡山時代には天皇の実姉である池田隆政夫人である厚子さまとも同窓会である岡山楼友会で親しくお付き合いさせて頂きました。1~2年のころは優等生。3年になってアルバイトをはじめて成績は急降下それもそのはず家業で酒を扱っているのでその知識を得ようと東京カクテールスクールに通いバーテンダーとして新宿のバーで働き、当時売り出しのクレージーキャッツのクラリネット奏者安田伸さんと仲良しになり、仕事が終わってから演奏を聴かせるからといって、お付き合いをしていたことも多いな要因となりました。
やがてすぐ家業を継ぐより少し世間を見てきた方が良かろうと、祖父のすすめで東洋工業の就職試験を受けるため、指定された「あさかぜ」に乗り込んだら隣の席が現県議会副議長の大曽根哲夫君で一緒に受験、運良く両者とも合格し入社後、私は宣伝部に配属。ここで先般なくなった�重清純君との出会いがありました。
シゲさんこと�重君はこれから最も重要とされるテレビを中心とした電波媒体担当。私は印刷媒体担当で最初の仕事は三輪車のバキュームカーのカタログ作りでした。
しばらくして販売部所属となり国内販売計画作りや販売会社へ配分した年間計画を策定しお引き受け頂くようお願いに参上しましたが、説得できる理論構成に抜群の能力を発揮したのが山内孝政マツダ社長の若き日の大きな功績でした。広島マツダ販売責任者、熊野さんのところへもお願いに行きましたが、計画販売の引き受けと共にかなりな販売促進費の提供も余儀なくされました。そして広島か東京でいつも開催していた全国販売者会議をたまにはゆっくりと大らかな気持ちで取り組めるよう、北海道あたりで開催してほしいとの熊野さんはじめ多くの販売責任者の声があり、稟申したところ「責職は何を考えているのか」の一括され却下。しかしまた2~3日して「お言葉を返すようですが・・」と何回か繰り返してねばりで了解をとり開催。販売責任者には計画必達をお願いし夜のパーティではカラオケ大会で熊野さんが全国優勝。ご静聴ありがとうございました。