- 本日のプログラム
- ゲスト卓話
- 卓話者
- 米山奨学生 劉欄欄さん
- 担当
- ロータリー財団・米山奨学委員会
- 祝事等
- ○ 連続出席表彰(6名) 神保 吉清 橋本明 赤羽 永田 橋本哲
28年連続者(松本)1名は11/27に表彰します
○ 結婚記念日(8名) 河野 若山 浜田 山村 森本 神保 村本 津久江 - 会長時間
- 中央RCは、広島13ローターリーの中で7番目のクラブです。会員増強を頑張って会員数でもそうなるべきと思っています。現在会員数は54名です。
業界のつながりの中にもロータリアンとしての二重の楽しみを味わえる過ごし方をしましょう。
次年度会長エレクトを指名によって進めたいと考えていますので宜しくお願い致します。 - 幹事報告
- ○ BOX配布物の確認
(1)理事役員会議事録及び12月プログラム - 委員会報告等
- 出席委員会:出席報告、健康一口メモ:城川大二郎君
職業奉仕委員会:四つのテスト唱和、禁煙例会
アドベンチャー同好会:旅行のご案内
卓話時間
米山奨学生卓話
劉 欄欄さん
私は中央ロータリークラブにお世話になるのがもう七月経ちました。みなさんの名前をなかなか覚えられなかったり、せっかく名前を覚えても、人違いだったり、本当に失礼いたしました。今日、この場を借りて、自分のことを話せていただきたいと思います。間違える日本語がいっぱい出ると思いますが、よろしくお願いします。
私が生まれ育った黒龍江省は、中国東北部、北東アジア地域の中心部にあります。日本の北海道より北です。面積 45.48万平方km、日本の総面積の約1.2倍です。農林業が盛んです。主要な農産物は、水稲、トウモロコシ、大豆などです。地下鉱物資源にも恵まれています。大慶油田に代表される石油が有名ですが、石油以外の地下鉱物資源の種類も埋蔵量も豊富で、その種類は確認されているだけで77種類に上ります。埋蔵量は石油、石墨等10種類が全国一位であり、他にも全国上位を占めるものがたくさんあります。
私の故郷は漢字で鶏と西と書いて、ジーシと読みます。鶏西市は黒龍江省東南部にあり、小さい都市です。面積は 2万 2531平方kmで人口は 198万人、漢族、満族、朝鮮族、回族、モンゴル族など 23の民族が集まって住んでいます。鶏西市は中国で日が一番早く上る所です。鶏西市は豊かな鉱山資源を持ち、既に発見された鉱山資源だけでも 56種にのぼります。鶏西市の石炭埋蔵分布地域は非常に広く、石炭の種類も豊富です。全埋蔵量は 80億トンに達し、年間生産量は 3000万トンにのぼります。全国のトップです。鶏西市は独特の自然景観で近隣に名をはせています。 特に北国の '緑宝石'と呼ばれる北東アジア最大の湖・興凱湖は毎年、観光客たちでいっぱいになります。
私は1977年7月7日に双子の次女として生まれてきました。日本と違って、中国では双子の場合に先に生まれて来た子供が上になります。つまり、姉が生まれて来た八分後、私がこの世に誕生しました。母の話によりますと、生まれた時、私の頭は半分くらいへこんでいました。母のお腹にいた時に、姉の頭にぶつけていたためでした。お腹にいた時からもう姉に勝てませんでしたね。父は製薬会社に勤めていました。今年61歳になりました。母は会計士でした。60歳になりました。双子のせいなのかな、私は小さい時から、体が弱くて、よく病気になっていました。病気になると、よく泣いて、とても手がかかって、うるさい赤ちゃんだったそうです。
父はとても厳しい人で、父によく殴られた記憶がいっぱいです。歯医者さんに行った時、怖くて、泣いて、先生の言うことを聞かなかったら、父にビンタされたり、宿題の字がちょっと汚かったら、蹴られたり、昔洗濯用の板に正座にさせられたり、一番酷かったのは、全身あざになって、痛くて、横になることさえもできなかったことでした。今の時代だったら、それは間違いなく虐待になるでしょう。こんな父でも、やさしい時もあります。よく病気になる私が病院に行くと、いつも父がおんぶしてくれて、帰りにチョコレートを買ってくれました。そんな時代にチョコレートはとても贅沢な食べ物でした。父の愛を一番感じたのは、小学校一年生くらいの私を連れて、父と一緒に出張に行った時でした。別の都市から帰って駅に到着したら、人がいっぱいすぎで、私をぶつけられないように、父は私を抱きました。そして、私にぶつかった人を怒鳴りました。その姿は、一生忘れません。今思うと、父が私にいっぱい愛をくれました。殴られたことも父の愛の表現でしたね。よく病気になったせいで、私の背が伸びるのも遅くて、小さい頃の服は全部姉のお下がりでした。新しい服をあまり着たことがありません。新年の時、一枚だけくらいでした。それでも私は文句ひとつも言ったことなかったです。今でも、母はそのことでよく褒めてくれます。
五歳の時、小学校の先生と近所だったので、幼稚園に入らず、試して姉と二人で小学校に入ることになりました。ついていけなかったら、母は留年すればと覚悟しました。意外と、成績がとてもよかったです。三年生のとき、文章の数学の問題が出てきて、その問題の意味をどうしても、理解できなくて、一時数学の成績が落ちたことがありますが無事に小学校を卒業しました。だから、私の小さい時の思い出は家族との思い出以外に、学校だけでした。ちょっと寂しかったですが、早く小学校に入学するのは本当にいいことと思います。先生とクラスメートにとても可愛がられて、やさしくされました。小学校は姉と六年間ずっと同じクラスなのに、姉の事をあまり覚えてないのは、ちょっと不思議です。
当時、成績によっていい高校入るか、普通の高校に入るかと違って、どの中学校に入るのが、住む場所、両親の会社によって、決められました。たとえば、両親の会社に附属中学校がある場合、大体その中学校に入ることになります。もちろん、権利を使って、子供をいい学校に入らせることもできます。うちは、権利もなく、あまりよくない普通 鶏西市第九中学校に入学になりました。初めて、姉を違うクラスになりました。
中学校の一年生の間、私は一番年下のため、下校後、帰りの道に、横断歩道を渡る時にクラスメートずっとは私の手を繋いでくれましたのは一番の思い出でした。中学校に入ったら、両親は姉にとても厳しくなりました。門限もあり、男の子がうちに来ることともなく、男の子からの電話をすべて、両親が監視していました。姉に比べて、私とても自由でした。遅く帰っても、大丈夫でした。男の子の電話あっても、蘭蘭 電話だよと。男の子もうちに私を遊びに呼びに来たことも少なくもなかったです。それでも、男の子のことで一度も怒られたことがありませんでした。姉に凄く羨ましがられました。二年生の時、学校に新しい校長がやって来ました。なぜその校長の話をするのを言いますと、その校長先生の運命を私の学年によって、大きく変わりました。私の中学校はとても普通の中学校で、むしろ、よくないほうでした。成績はよほどよくないと、いい高校にはとても入れません。そして、私の学年の受験成績は歴史的に一番よかったです。市内の一番いい高校を受けた人数は今まで、一番多く、しかも、その高校に受けた受験生のトップスリーはみんな私の同級生、つまり、みんなはうちの中学校の生徒です。それで、その校長、私の中学校に二年足らずしか勤めてないのに、すぐ出世して、黒龍江省の教育部に移されました。本当にラッキーの人でしたね。前の校長ちょっと可哀想でした。姉の成績とてもよかったです。私の成績が悪くないが、よくもなかったです。本当にいい高校を受けられるはずない私が、そののりにも乗れて、市内に一番いい高校に受けました。私、ちょっとして、本番に強いかもしれないです。
そして、1991年、私 鶏西市第一高校の生徒になりました。鶏西市第一高校は1952年創設され1980年名門高校として認定されました。1992年全省の名門高校の前十名にもなった有名の高校です。最初のクラスは、六班でした。みんな明るくて、やさしい子ばかりでした。私の高校は勉強ばかりじゃなく、体育もとても重視されました。クラスを単位で、よく試合を行われました。クラス負けると、女の子みんな泣いたり、勝つと、笑ったり、本当にとてもいいクラスでした。二年生の下半期、文科、理科を分けるために、クラスを再編することになりました。その前日、教室で、みんな泣いて、六班万歳、万歳と何回を叫びました。いまでも、はっきりと覚えています。私は歴史など覚える科目苦手ため、理科を選びました。高校の時、本当にあまり勉強しなかったです。それだけ、ちょっと後悔しました。中国では、高校受験は7月7.8.9日と決まっていました。天気がだんだん熱くなってきたため、2004年から六月7.8.9に変えました。そして、普通の大学にもギリギリの私はまた、ハルビン医科大学 臨床医学に受けました。私って本当に本番に強いかもしれませんね。高校は一番楽しかったです。みんなとても純粋でした。もし昔に戻る事ができるなら、私は迷わなく、高校に戻りたいと思います。そして、もっともっと勉強したいと思います。
1994年9月私初めて、故郷を離れて、汽車で十時間かかるハルビンでの生活がはじまりました。ハルビン市は、黒龍江省の省都であり、中国の10大都市の一つで、中国東北地区の経済、文化の中心である。ハルビン市の面積は、約1637平方kmで、人口は約330万人が住んでいます。内陸寒冷帯気候なので、夏は涼しく、冬はとても寒いです。(年平均気温は、2.4℃で)。1月から2月のハルビンは零下20度を超えます毎年この頃「氷雪祭」が開催されます。
そして、ハルビン医科大学は1926年創設 全身は哈∂?±?医学専門学校でした。面積 125万平方米 建筑面積98.6万平方米であります。1926年創設 哈∂?±?医学専門学校
面積 125万平方米 建筑面積98.6万平方米 在校学生9947人。大学院生2086人,学部生5496人 であります。心臓移植、肝移植は全国でトップレベルです。
中国の大学生はみんな学校の寮に住んでいます。一つの部屋には大体八人住みます。つまり、大学に入ると、共同生活は始まると言えます。私の寮は九人でした。二階ベッド四つと普通のベッド一つを置かれていました。私は年一番下で、お姉さん達も皆明るい子でした。一緒に生活するのは初めてだから、お互いに気を使い合って、助け合うのは当たり前なことでした。一番楽しかったのは高校生活と言うと、大学生活は一番懐かしいです。
そして1999年7月、私大学を卒業しました。大学二年生の時、免疫学に出会えたのです。そして、基礎医学 免疫学をもっと勉強したいと思いました。私は同じ医大生で広島大学に留学経験ある叔父さんにいろいろ聞いて、アドバイスをうけて、日本に留学すると決めました。2000年の10月、私来日しました。日本語はできないため、YMCAで一年半日本語を習いました。
次に、ちょっと今私やっていることを簡単に紹介させていただきたいと思います。2003年組織破壊による、自己成分である尿酸クリスタルにもdanger signal としてDCを活性化して、immune activation と炎症をおこすという論文が発表されました。これらの事より、例としてアトピー性皮膚炎を考えて見ると、組織破壊が皮膚組織のDCを活性化することがアトピー性皮膚炎の悪化因子の一つという考え方が可能だと思って次の実験をやった。
その実験方法をわかりやすくするために、警察にたとえば説明したいと思います。まず昼に投与した抗原は、犯人のデータとして、DC細胞、つまりおまわりさん達を集めて、その情報を上司につたえます。同時に上司をよく働かせるために、賄賂も渡します。そして、その上司は刑事さん達に犯人を見たら、殺してという命令を下しました。人間と違って、マウスには尿酸の分解酵素を持っているため、あらかじめ、マウスに12週くらい、酵素のinhibitorを餌に混ぜて、食べさせました。結果、クリスタルに投与による、炎症が増強されました。さらに、そのメカニズムを検討するため、マウスを解剖して、免疫反応が起きる現場リンパ節の細胞を見てみました。結果、CD86という刺激分子、つまりその賄賂が高くなったことがわかりました。つまり、尿酸クリスタルは賄賂を倍にしたため、炎症が増強しました。現在、そのメカニズムをさらに検討中です。
研究が結構面白くて、好きですが、医科大学で臨床医学、大学院で基礎医学を勉強し、そして、せっかくに日本に来ましたので、私は二つの国同時に何か役に立つことができたらいいなと、ずっと思っていました。そこで、思い付いたのは日本の創薬会社に就職して中国で医療情報を集める仕事です。
中国には、お金がなくて、重い病気を抱えて、治療をしてもらえない患者は、たくさん居ます。その患者達に薬のサンプルを与えて、苦しみを少しでも軽くすることができたら、それと同時に、情報を収集し、より利きの良い薬を生み出していくことに繋がることが出たら、幸い役に立ちます。今はとても忙しくて、就職活動全然できないですが、卒業したら、一生懸命努力したいと思います。先生達もそういう情報があったら、教えていただけたらと思います。
日本に来て、いろいろな経験をしました。アルバイト先でいじめられても、言葉を返すことができなかったです、やめたくても、病気になっても、生活と学費のために働き続けるしかなかったです。よく頑張ったなと自分を褒めたいです。そして、両親に甘えられること、両親に叱られること、友達と遊べること、今まで当たり前と思っていたことがどんなに幸せだったのかよくわかりました。日本に来てよかったです。心が優しくなりました。そして強くなりました。
最後、米山奨学生として採用していただけて、本当にラッキーだと思います。とても助かっています。今研究に専念できたのは皆さんのおかげです。心から感謝しています。ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。