- 本日のプログラム
- 会員卓話
「ためになった実話」 - 卓話者
- 橋本明弦君
- 担当
- プログラム委員会
- 会長時間
- ・出席について(世界大会・地区大会・IM・例会)
・IMの出席要請
・他クラブ例会に参加をしてみよう!クラブ活 性化に重要。 - 幹事報告
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11/30に発送しておりますインターシティミーティングのご案内につき回答状況が良くありませんので、締切は22日ですが、本日案内を回覧いたしますので、出欠をご記入下さいますようお願い致します。
・次週例会のお知らせ
12/26?の例会は22日に変更して夜間例会並びにクリスマス家族会を18:00~ホテルニューヒロデンにて開催しますので、お間違い無きようご出席下さい。 尚、年末ですので12/22ご欠席の方は早めにメークアップを‥
・次回例会(12/22)開始前16:30~第3回クラブ経営合理化検討特別委員会を開催しますので、関係各位はご出席をよろしくお願い致します。
・合同事務局年末年始休み(12/29~1/3) - 委員会報告等
- ・出席:出席報告
・社会奉仕:愛のコイン箱
・国際奉仕:使用未使用古切手類収集
卓話時間
『ためになった実話』
橋本明弦君
私が広島で35年間過ごした中から、政治とカープに関するお話をします。
先ずは政治、私が国会議員の秘書になった理由から。私は大学時代の4年間、体育会に所属して練習としごきの日々を過ごしたので学業を疎かにしてしまいました。だから社会に出て何もわからない。経済や世の中の仕組み全てです。これではいけないと、会社設立と同時期に郷里の先輩、浜田幸一先生の事務所の門を叩きました。社長業と兼ねて東京と広島で半々の生活を6年間続けました。
浜田幸一という人物、78歳の現在は随分優しくなられました。当時私は20代、ご本人は50代前半。型破りな半面、勤勉な政治家でした。お酒は一滴もダメ、毎日、国会を終えて個人の事務所に外務・大蔵ほか各官庁の方を招き、深夜まで勉強されました。官僚の間では浜田先生に呼ばれると朝まで帰れないというのが定説でした。我々も同席して勉強の毎日でした。そんな秘書生活の中、ある問題が発端で一度だけ議員を辞職しました。その一年半は良い充電期間でした。更に猛勉強を重ねて次期選挙でトップ当選(当時は中選挙区時代)することに執念を燃やし、見事にその通り返り咲き、直ちに建設委員長に就任。これは建設省の法案を審議するところです。
私が最も浜田幸一らしいと感じた出来事を紹介します。昭和55年頃に半島振興法という法案が建設省より提出されました。日本には房総・紀伊・大隅等、半島が多く存在します。その半島が内陸部から見たら道路整備も遅れ漁業・農業が衰退して過疎地となる一方。これらの改善策が半島振興法です。当時、田中角栄前総理が「そんなものに予算は組めない」と一蹴、しかし師と仰ぐ田中先生に対し「こればかりは譲れない。半島振興法は絶対にやる!」と時のキングメーカーに挑戦。激論の末、ついに法案を通しました。その時に信念を貫く尊さを学び、男として生を受けたからにはこれに倣わねば、それも人の為になる事をしなければならないというかけがえのない教訓を得ました。
次にカープ。私が広島で警備会社を始めたのは26歳、既に30年を越えました。当時の広島県に警備会社は日本警備(現在のセコム)と総合警備の2社のみ、私が3番目です。起業したことで広島東洋カープの先代オーナーの松田耕平さんと出会いました。きっかけは宇品の競輪場での放送案内のミスによる大事件の発生によります。当社はその競輪場の警備を担当しておりました。当日の午後、外出先の私に「競輪場が火の海になっている」と連絡があり、急遽現場へ直行。私は県警の機動隊と共に二週間ほど競輪場に寝泊りしました。騒動が沈静化した頃、松田さんに呼ばれました。お会いした途端、「今期からカープの仕事を任せたい。君に任せるから全部やりなさい」初対面でしたが、知人に話を聞かれ、競輪場の騒動の収拾に取組んだ私のことを信用してくださったのです。それ以来、今日まで29シーズンが経ちました。
松田さんとの想い出の一つ、昭和54年に初の日本一に輝いた時のことです。優勝を決めたその試合、オーナーと私はベンチで応援。大詰めで江夏が大ピンチを背負いながらも切り抜けたあの試合です。絶体絶命の中、オーナーは震えていました。「こりゃ勝てん。負けた」と。しかし奇跡的に勝ったその瞬間は卒倒寸前、本当にびっくりしました。その後大阪のロイヤルホテルで選手と共に祝賀会の後、帰広の予定。広島駅には人が溢れているという情報を入手済みだったので「おい、ワシを放さんでくれよ。もみくちゃにされたら死ぬぞ!」という訳で・・・当日の写真が中国新聞の一面にドカーンと掲載されました。私がオーナーのベルトの後ろを必死に掴んでいるんですね。今も懐かしく忘れられない一日でした。
選手との交流も沢山ありますが、特に江夏豊選手と衣笠祥雄選手についてご紹介します。
まず江夏選手です。彼は私の一歳下、カープに入ってすぐに威張っていました。「山本浩二なんかワシのボール打てんかったじゃないか。打てん者が偉そうに言うな」といったことを平気で言う男でした。入団した年に紹介され「アンタ警備の仕事しよるんか。今度から頼むわ。」というのが第一声。カチンときて「誰に言いよるんか、ふざけるな!」と、私も若い頃でしたから突き返しました。彼は他人に厳しいことを言われた経験が無かったようで、以後は私を「アニキ」と慕い、いつも傍にいました。移籍の話題が持ち上がった頃も当社へ頻繁に出入りしていたので、よく新聞記者に囲まれて「どこに移籍するのですか?」と聞かれたものです。後に日本ハムへの移籍が決まり広島を後にしました。
衣笠選手は同じ関西出身の江夏選手とは気が合いました。互いに対戦し、非凡な打者・投手というのを認め合っていたのです。私は偶然にもそんなお二人と仲良くなりました。
衣笠さんはご存知のように国民栄誉賞に輝かれ、規範を示すという意味で大変抑制された生活を送っておられます。しかしそれを完全に自分のものにして、現在は野球人というより文化人のような感覚をお持ちのように見受けられます。うちの25周年の記念講演もお願いしました。今取組んでおられる活動は、広島や野球界の発展というより、ロータリアンも出来ないようなこともあります。文科省からの依頼による辺鄙な町での講演や子供達とのふれあい、外務省が行なう10日間の船上研修に講師としての参加、等々。本当に温厚な方でもあり、野球人という面影は薄れつつありますが現在でも野球は勿論大好きです。
広島東洋カープは、素晴しい選手を多く排出し、日本一にもなりました。共に過ごした29シーズン中、あの頃の数年は絶対に負けないだろう、こんな強いチームはもうできないだろうと思っていました。私は高校時代に野球をやっていましたが、プロ野球のことは詳しくありませんでした。松田オーナーの命令で三年間は地元のナイターに全て通い、オーナーの隣で観戦しました。投手・打者、守備走塁に至るまで、強さを肌で感じました。
カープの仕事に携わり、とても幸せな気持ちを覚えることがあります。熱狂的なカープファンは関東にも多く存在します。特に東京を訪れた時には誇らしく思います。だからこそ最近の成績には寂しさも覚えます。
今の私は浜田幸一・松田耕平というお二人の師に多くのことを学んだ上で、警備会社を営みつつ協会の会長も務めております。広島県で協会員は187社、警備員は約2万7千人です。お二人の教えは支えであり、深く感謝しております。
RCにおいても大先輩の城本・山村両会員を始め、皆様に教えを請うて参りますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
ご清聴ありがとうございました。