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「電気のお話あれこれ」 - 卓話者
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・インドでは、100$で3回の白内障の手術ができる、世界に5000万人もの失明者に愛の手を!
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- ・「カムリーバンク」募金協力願い=募金箱回覧
・クリスマス家族会の回答締切が本日となっています。準備の都合がございますので未回答の方は至急事務局までお知らせください。
・名簿内容追加訂正変更のお願い
次週例会時に名簿内容変更文書を配布しますので、追加訂正等ございましたら、例会終了後事務局までお知らせ下さい。 - 委員会報告等
- ・職業奉仕:禁煙例会、四つのテスト唱和(ロータリーソンクグ終了後実施)
・出席:出席報告
・会長エレクト:次年度理事担当部門、SAA委員長、副幹事の決定報告
卓話時間
電気のお話しあれこれ
森本幸雄君
『電気のお話あれこれ』
森本でございます。本日は,「電気のお話あれこれ」と題して,新会員卓話をさせていただきます。私からは,「電気が日本で使われはじめ,電灯をはじめとして,いろいろな電化製品が普及していった歴史」すなわち「電化の歴史」というものを中心にお話させていただきます。
もちろん,今年のプログラム委員会の方針であります「子供の頃の話」を織り交ぜてお話するつもりでございます。
さて,毎年3月25日は,わが国で初めて電気による灯りが灯された日を記念して,「電気記念日」といたしております。
明治11年,西暦に直しますと1878年ですから,いまから127年前の3月25日に,東京虎ノ門の工部大学校,これは現在の東京大学工学部でございますが,その大ホールにおきまして,工部大学校の教官をしておりましたイギリス人のエルトンという人が,数十個の電池を使ってアークライトを灯したのであります。
このアークライトといいますのは,二本のカーボン電極をショートさせ,放電が始まったら電極を離して,アーク,(炎の弧ですけれども)これによって燦然たる光を放つというものでございまして,皆様ご存じのトーマス・エジソンがフィラメント電球を作るまで,一世を風靡しておりました電球であります。
明治が始まりましてから,文明開化は進んでおりましたが,あかりについては,あんどんとか石油ランプ,あるいはガス燈でございまして,これらはいわゆる「燃焼による火の光」でございましたから,電気による光りというのは,とても明るく,まぶしくて,それはもう集まった人々を驚嘆させたのだそうであります。
その4年後,明治15年には,開設準備中の東京電燈会社が,銀座におきまして2000燭光のアーク灯によるデモストレーションを行っております。
その時の模様が,錦絵として残っております。その様子は,「さながら白昼のよう」であり,およそ「二町四方」を照らし出したといいます。
「一町」といいますと約100メーターの距離ですから,縦横それぞれ
200メーターの一帯を明るく照らし出したということでしょうか。この錦絵からも,集まった人々が電気の灯りに驚愕,驚嘆している様子が見てとれるのであります。
「暮らしと電気」と言ったとき,私たちが最初に思い浮かべるのは,照明・あかりのことではないでしょうか。なにしろ日本人の多くがいまだに「照明」のことを「電気」と呼んでいるほどであります。たとえば「電気をつけて」などという言いまわしは,日本独特のもののようです。
ドイツ語で「電気」と言った時は,電車のことを指すそうでございまして,ドイツ人にとって,電気は「乗る」ものなのであります。
この電気を初めて体験したときのキーワードは,「不思議」という言葉ではないかと思っております。明治,大正の日本人にとりまして,電気との出会いは,まず「不思議」なものだったのであり,この「不思議」体験を中心とした,電気にまつわるエピソードをこれからいくつか紹介させていただきます。
中国地方におきましては,明治21年10月に岡山で初めて電灯が灯っております。場所は当時の岡山紡績の工場でございまして,自家発電で起こした電気を使って,作業能率の向上と火の用心のために電灯を導入した訳ですが,夕方電灯をつけて操業を始めますと,「昼のように明るい」と見物人が毎日のように大勢押しかけてまいりまして,遂に工場の塀を壊してしまうほどだったと言います。
この岡山紡績に電灯がついてから6年後の明治27年5月,一般の家庭に電気を供給する岡山電燈株式会社が開業をいたしました。
中国地方で初めての電燈会社の開業でございますが,開業当時はなかなかお客さんが現れず,業を煮やした支配人ともう一人が,鬼の面をかぶって裸になりまして,赤ふんどし一つ,ぞうりばきで,太鼓をたたきながら町中を歩きまわり,街角へ来ると立ち止まりまして,「電灯をとらんと文明開化に遅れる。岡山が世間から笑われてはならない。」と大声で宣伝をしたそうであります。
こうなりますともはや男鹿半島のなまはげと同じでございまして,宣伝というよりは,恫喝であります。
また,電灯宣伝のために岡山内山下の本社の前にアークライトをあかあかとつけまして,その下に電気で動くおもちゃの機関車を走らせますと,「こりゃあすげえ!」と人気を博したそうであります。
岡山電燈の人はこの評判に大層気をよくいたしまして,それでは電灯の名前を覚えてもらおうと,「アークライト」と書いた張り紙を出したところ,翌日にはその張り紙に,「昼ほどに明るく照らすこの灯をば,ああ暗いと,とはなぜに名付けた。」との落書きがされていたそうであります。
はたまた,当時電灯は相当高価なものでございまして,誰が書いたのか,「灯がついて外は明るくなったれど,13銭で家はくらやみ」という張り紙が電柱に貼ってあったというような話も残っております。
この「外は明るくなったれど」とは,どういうことかと思いまして,昔のことを良く知っている年配の方に話をお聞ききしますと,電気が普及し始めた頃は,電燈は暗い家の中につけずに,外からよく見える玄関口につけまして,「うちには,こんなハイカラなものがあるんだよ。」と,近所に誇示をするといいますか,また見栄を張るといいますか,一種のステイタスシンボルとして用いられていたのだそうであります。
ここ広島では,岡山電燈が開業した5カ月後の明治27年10月に広島電燈株式会社が開業しております。
設立されたのは,明治26年5月と,岡山電燈より一年近く早かったのですが,実際の開業の方は,岡山電燈より少々遅れております。
その理由は,新規事業に対する広島産業界の伝統的な保守性によるものとされておりますけれども,会社設立の発起人であった高坂万兵衛氏は,そのときの状況を次のように語っております。
「当時の広島市民の中には,電燈を見た者は皆無といってもよいくらいであったので,電燈申し込みを期待しても全く問題にしてくれない。そこで,大阪電燈から発電機を借り,広島商工倶楽部のところへ5馬力で電燈をつけれるだけつけると,それをみんな不思議がって見た。それで初めて,みんな電気というものを知ったようなことである。」
やはり広島でも,電気に対して「不思議」というのが印象だったようでありますが,奇抜なアイデアと行動力で電灯の宣伝をした岡山人と比べますと,現物を見ないうちは,ものは信用できないという保守的なといいますか,きわめて慎重な,広島人の性格がこの話の中からも窺えるのであります。
このように電気が全国に普及していく一方で,日本人の中に電気という新技術に対する抵抗感あるいは違和感のようなものがなかったわけではありません。
人々の中には,相変わらず「夜も消えないというのは,火災の危険があるということだ。」といった心配があったり,また,「明るくなるのはいいが,電灯が照らす色がよくない。」というような声もあったようであります。
明治16年,東京虎ノ門で初めてアーク灯がともされてから5年後ですけれども,関西初のアーク灯をともした京都の「都をどり」では,「電灯に照らされると顔の色が蒼く見える」という噂がたち,そのために祇園の舞妓さん達は,京都風の厚化粧で赤を塗りたてたといいます。そのさまは,まるで「顔が真っ赤になった酔っ払いがフラフラしているような格好」であったとされています。
あるいは,京都の遊郭でのお話ですが,抵抗感,違和感というよりも「電気に困惑した」ということもあったようです。
明治17年4月22日,この日の東京日日新聞には,次のような記事が載っております。原文のまま,申し上げますと,
『既に三十歳近く,もはや日の暮れなんとする年ばえの者も,極彩色の厚化粧でこれをろうそくの灯に見せるゆえ,』
~既に三十歳に近く,もはや引退しようとする年頃の女性も,けばけばしい色取りの化粧でろうそくの光にさらすため~
『「金巾(かなきん)は蜀紅(しょっこう)の錦(にしき)と紛(まが)い,』
~かなきんといいますのは,もともとポルトガル語で,これに金(かね)と巾(きん)の字を当てたものですが,比較的安物の綿の織物のことでございます。その着ている,あまり高級でない綿の着物は,中国四川省で作られる高級品の絹の織物にも見まちがえられ~ ,
『三十(みそじ)島田(しまだ)も十九や十八くらいかとみえたるも,』
~この島田といいますのは島田まげのことで,文金高島田など女性の髪の結い方のことであります。その30才の島田まげの女性も十九や十八のうら若き女性に見えていたのが~ ,
『このたびは名におう電灯の灯りで,』
~このたびは,かねてとっても明るいと聞いている電灯の灯りであるために~ ,
『衣装の金巾(かなきん)も顔も縮緬皺(ちりめんじわ)も判然見え透くので,一同が気をもみ・・・』
~衣裳の綿(めん)の着物も顔も,はたまた細かいしわまでも,はっきりとみえてしまうので,全員が気をもんだ~」というくだりがあります。
要は,今までお化粧して皺(しわ)をごまかしていたのに,明るくされては困るということであります。
その気持ちが分からないわけではありません。高度情報化の現代にありましても,デジタル放送になると,顔の皺まではっきり見えるからいやだとおっしゃる女性アナウンサーもおられるようでございます。
ところで,電気に対しては「先進的」あるいは「ハイカラ」というイメージもありました。
1900年頃(明治33年頃でございますが),アメリカで,電気ネクタイなるものが発売されております。お手元のレジメにその広告チラシを載せておりますが,直訳いたしますと,「ついに出た!ネクタイ用電球,1ドル50セント。強力バッテリーとアクセサリー付き。」ということに相成ります。
想像いたしますに,このバッテリーを上着のポケットに入れ,そこからコードを引っ張って,電球をネクタイにつけて照らすという代物ではないかと思われます。
現代のIT時代におきましては,「インターネット」,「ウェブ」といった言葉を企業名や商品名に入れようとしたように,1900年代初頭の「電気」という言葉も,非常に先端的な,それを使っているだけでその人の先進性がわかるようなもの,というイメージがあったに違いありません。
一方,日本においても,「電気」という言葉を使った飲み物が登場しております。明治15年,電気が日本で初めて灯って4年後のことですが,東京浅草の神谷バーという所で「電気ブラン」というカクテルが作られております。ブランとは,ブランデーの略で,当初は「電気ブランデー」と呼ばれておりました。
当時の浅草は日本最大の盛り場であり,最先端のものが集まった流行スポットでした。その場所で出される新しい飲み物に「電気」という名前をつけ,最先端の,そしてハイカラな雰囲気を出そうとしたのではないかと思われるのであります。
電気ブランは,当時一杯10銭でアルコール度数は,45度だったそうであります。中身は,ブランデー,ジン,ワイン,薬草などで,「琥珀色で,甘味の強いブランデーのような味」と紹介されております。
この電気ブランを作ったのは,浅草「神谷バー」の経営者であり,後に「大正のワイン王」として知られる実業家,神谷傳兵衛(かみやでんべえ)氏であります。電気ブランは,現在も浅草で営業中の神谷バーで,飲むことができます。
実は私も,この電気ブランを広島の某スタンドで飲んだことがあるのですが,確か流れ流れて飲んだ三次会でのことのゆえ,味も場所も全く覚えておりません。
さて,昭和の時代にはいりますと,照明以外の電気器具が普及し始め,この頃から「家庭電化」という言葉も使われはじめます。
どのような電気機器が使われていたのでしょうか。
昭和5年,いまから75年前に,東京市電気局によりまして電気使用の実態調査が行われております。それによりますと,昭和初期における都市の中流家庭では,アイロン,電気スタンド,ラジオ,扇風機あたりを使用するのが一般的であったということです。
電気アイロンが,なぜいち早く普及したのかといえば,それは従来の炭火アイロンに比べ,使い勝手が非常によかったからと思われます。
電気アイロン使用者の体験談を見てみますと,従来の炭火アイロンでは「炭をつぎたす」手間がかかり,「火の粉や灰が落ちシミやキズができたり」したけれども,電気アイロンはこれらの問題を解決し,また炭のアイロンより「仕上げがよい」とするという意見があるのであります。
次に所有率が高かったのが電気スタンドであります。
電気スタンドといいますと,私達は学習机などで使用する,目にやさしい蛍光灯を思い浮かべますが,蛍光灯が普及するのは第二次世界大戦の後でありますから,昭和の初期に流行った電気スタンドとは,フィラメント電球に巨大な円形のかさのついた,背の高いテーブル・スタンドのことであります。
当時,児童・生徒の近眼が急増していたことから,四文字熟語で「明灯明視(めいとうめいし)」,めいとうとは,明るい電灯で,めいしとは,明るい視力の視と書き,はっきりと見えること,でありますが,「明灯明視」という国民運動が広がり,背の高い電気スタンドが規格品となって製造,販売されていったのです。
しかしながら,昭和12年に日中戦争が勃発いたしますと,各地で消費節約運動が起こり,それに伴ってこの電気スタンドを宣伝することが難しくなっていきました。
つぎはラジオであります。大正末期から昭和ヒトケタにかけて,ラジオが日本の家庭に急速に普及しました。最初のラジオ放送は,大正14年3月に行われましたが,この頃ラジオは「放送用無線電話」というふうに呼ばれておりました。
当初人々は安い鉱石ラジオを使用しておりました。この鉱石ラジオは,ヘッドホンを使わなければ聞くことができず,ラジオ放送は個人単位で楽しまれていたのであります。これを変えたのが昭和3年に登場した「エリミネータ式ラジオ」であります。
エリミネートとは,除去する,不要にするという意味で,エリミネータとは,電気用語で電池を不要にする装置のことであります。すなわち,このラジオは電灯線を電源とし,誰もがスピーカーから放送を聞けるようになった画期的なラジオだったのであります。
昭和3年に全国で38万世帯に過ぎなかったラジオ聴取者は,その後4年で100万世帯にまで増え,昭和12年には300万世帯に達しました。その結果,われわれが昭和の情景として思い起こす「家庭でラジオに聞き入る」というスタイルが日本の家庭に定着したのであります。
ところが,ラジオが普及していく段階で,問題となったのが「騒音」であります。昭和7年の「家庭の電気」という雑誌には,「最近では,大抵の家でスピーカーを使うようになりましたが,ラジオのために他人に迷惑をかけないようにしましょう。」と書かれており,どうやらラジオの騒音が社会問題化していたようであります。当時の日本家屋は隙間の多い木造で,ラジオの音は容易に隣りの家に伝わり,勉強の邪魔,安眠妨害となっていたのではと想像されます。
人々が電気を初めて家に引いたとき,電灯を家の中につけずに玄関先につけてご近所に見せびらかしたのと同じように,ラジオの音量を下げなかった理由のなかには,ラジオを近隣に自慢したいという気持ちもあったのではなかろうかと,邪推もしたくなるのであります。
つぎは扇風機であります。扇風機が一般に使用されるようになったのは明治30年代半ばからですが,そのほとんどが外国製品で,値段も高かったようです。大正末期に至って国内メーカーによる安くて品質のよい扇風機が市場に出回るようになり,こうして扇風機は,中流階級の人々にも手の届く電化製品となったのであります。
しかしながら,扇風機が家庭電化の主役となることはありませんでした。想像いたしますに,戦前の日本社会にあって,電気の扇(おおぎ)を使うなどということは,ぜいたくなことであったのであります。
昭和5年には,宮内省で節約励行の一環として扇風機の使用取りやめが起こっておりますし,地域によっては「扇風機税」という税金が徴収されておりました。まさに扇風機は「ぜいたく品」であったのであります。
さて,戦争も終わり,昭和30年代のお話をさせていただきます。昭和30年代といいますと,神武景気と呼ばれた好景気とともに,電化製品が爆発的に普及した時代でもあります。
当時所帯をもったらすぐにでも欲しいあこがれの商品として,白黒テレビ,電気冷蔵庫,電気洗濯機があげられ,これらは「三種の神器(じんぎ)」と呼ばれておりました。
実は私,昭和26年4月15日生まれでございまして,広島県の西の端,大竹市で育っております。昭和30年代といいますと,私が4歳から12歳くらいの時代でございまして,ちょうど物心ついた幼稚園と小学生の時代にあたります。したがいまして,私もこの「三種の神器」との出会いを鮮明に覚えております。
二週間ほど前,「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見ました。ビッグコミックオリジナルに掲載されている,西岸良平さんの「三丁目の夕日」を原作とした映画であります。
東京タワーが建設中だった昭和33年の東京下町を舞台とした人情物語とでも言うんでしょうか,その町並み,人々の服装,風物など,昭和30年代が子供時代である私にとって,とてもなつかしいもので,誠に郷愁をそそる映画でございました。
「三種の神器」のうち,最初に映画に登場したのが,白黒テレビであります。
NHKがテレビの本放送を開始したのは,昭和28年ですが,その当時テレビは一般家庭ではまだ手が届かず,人々は駅前広場や電気店などの街頭テレビに集まって,プロレスや相撲を見ていました。
この映画のなかでも,「主人公の家にようやくテレビが届き,タイミングのいいことにその日はちょうど力道山の試合の日,近所の人々が総出でこの主人公の家に詰めかけ,力道山の試合を見ながら,みんなであの空手チョップをする」という場面があります。
その時,家に届いたテレビには,緞帳(どんちょう)といいますか,カーテンのようなものが掛かっており,それをまくし上げるとブラウン管が現れるというものでした。まさに「テレビ様」という感じで,下にも置かぬ扱いであったのであります。
私自身,大竹の家の近くにお好み焼き屋さんがあり,そこにテレビが置いてありました。夕方になると10円玉を握って,肉とか卵の入っていないキャベツだけのお好み焼き,(これが一番安くて10円でした),を食べに行き,力道山のプロレス中継を見たものでございます。食べ終わると居づらくなるものですから,10円のお好み焼きをじっくり,じっくりと時間をかけて食べておりました。
さて,全くの余談でございますが,ある日どうしても5円玉しかなく,そこのお好み焼き屋のおばさんに,「5円しかないんだけど,これでお好みを作ってくれない?」とお願いすると,「しょうがないわね。」と言いながら10円のお好み焼きを作ってくれました。
「シメシメこれは得をしたな」と思っていましたら,お好み焼きが出来上がった瞬間に,おばさんはヘラできれいに半分に切って,5円分だけ私に出し,残り半分をペロッと自分で食べてしまいました。その時の,恥ずかしいような,悔しいような,なんとも言えない気持ちが未だに私の心の中に残っております。
この映画で,次にでてきたのが,電気冷蔵庫であります。
昭和30年代の初めは,氷式冷蔵庫が活躍しておりました。この氷冷蔵庫,上の段に氷を入れて,下段に入れた食材を冷やすというものですが,氷は氷屋さんから買わなければなりませんでしたし,氷が溶けてしまうと使い物になりませんでした。
この映画でも,氷冷蔵庫に入れておいたシュークリームを取り出すのを忘れてしまい,日にちが経っているので捨てようと思ったが,生まれて初めて口にするおいしい食べ物ということで捨てきれずに食べてしまって,結局おなかをこわして大熱が出た,というシーンもありました。
電気冷蔵庫の登場で,人々は食材をまとめ買いして,保存するようになりました。また,スイカを冷やしたり,氷を家でつくることも可能となった訳であります。
この映画では,初めて電気冷蔵庫が主人公の家に届いた日,子供のみならず大人までが,冷蔵庫の中に頭を突っ込んで,冷気を確認しておりました。
私自身子供の頃,暑い夏の日,冷蔵庫の扉を開けたり,閉めたり,あるいは映画と同じように,頭をつっこんで,「ウーン,冷たい」と呟いた記憶がございます。また,氷ができるのが嬉しくて,まだできていないかと,何度も何度も製氷室を覗いた記憶もございます。
「三種の神器」のもうひとつは,電気洗濯機であります。
電気洗濯機は,残念ながらこの映画には登場してまいりませんでしたが,電気洗濯機こそ,人々の価値観を変え,主婦の過酷な家事労働を軽減した最大の功労者ではないかと思っております。
以前の洗濯は,たらいに水を入れ,しゃがみこんで,洗濯物を一枚ずつゴシゴシと洗って,汚れを落としておりました。特に寒い時期,水洗いはつらいものです。主婦にとって,まさに重労働だと思います。しかしながら,電気洗濯機はこんなに便利なものなのに,昭和20年代後半まで人々はほとんど購入しようとしませんでした。なぜでしょうか。
かつて明治以降,「質実剛健」の流れをくんだ「婦徳」という考え方がありました。「婦徳」とは,婦人の「婦」に人徳の「徳」と書き,「主婦らしく働く姿を良しとする」,という考え方でございます。その婦徳の中心が洗濯であったのであります。
具体的に申し上げますと,「主婦はひたすら寡黙に,たらいで洗濯をすべきであって,電気機械などに頼るべきではない。」というものであります。もっとありていに申し上げますと,「男は黙ってサッポロビール。女は黙って,たらいで洗濯。」ということであります。
戦後の昭和25年に至った当時においても,相変わらず値段が高過ぎたということもありますが,「そんなもんで主婦の当然の仕事である洗濯をさぼるのは,けしからん。」という抵抗感があり,電気洗濯機は,ほとんど売れなかったそうであります。
ところが,昭和28年に現在の洗濯機の原点とも言える噴流式洗濯機,噴流式というのは,洗濯槽の側面につけた回転翼で水流を起こすやり方ですが,この新型洗濯機が従来よりも低価格で発売され,また,販売にあたっては,「日本の奥様方は,三年で象一頭分の重さの洗濯物をゴシゴシと洗濯しています。」という譬えを使ったり,あるいは「女性を解放します。」,「洗濯しながら本が読めます。」という謳い文句で宣伝をしましたところ,ガチガチの「婦徳」の考え方はしだいに鳴りをひそめていき,婦徳よりも利便性の追求の方が優先されるようになるのであります。
そして昭和30年代にはいり,国内各メーカーがしのぎを削って電気洗濯機の開発をし,価格も次第に下がっていく中で,昭和32年当時,20%であった電気洗濯機の普及率は,昭和40年には78%にまで上昇していきました。
この昭和30年代の洗濯機には,洗い終わっても現在のような脱水装置はついておらず,手でハンドルを回してしぼるローラーがついておりました。このローラー式のしぼり機を回すのは,子供の役目になることが多かったようです。私自身,ぶつぶついいながらもローラーで水をしぼり,なにがしかのおこづかいを貰っていたような記憶がございます。
以上,「電気のお話あれこれ」ということで「電化」を中心にお話をさせていただきました。
私と中国電力とは,昭和26年生まれの同い年でございます。これからも電気を通じて皆様の生活,暮らしにお役に立ち,地域の発展にいささかなりとも貢献できればと,願っております。
ご静聴ありがとうございました。
以上