2016-2017年度 8月期

第1258例会記録

2005年08月22日 (月曜日)
【場所】 リーガロイヤルホテル広島  【ロータリーソング】 それでこそロータリー

本日のプログラム
会員卓話
「8月6日 被爆当日の思い出」
卓話者
熊野 巧君
担当
プログラム委員会
会長時間
・ロータリーの綱領にある国際間の理解と親善と平和を推進するにあたり、在広RCとして被爆の経験を踏まえた心構えをもちたい。
・ロータリー財団プログラムの紹介、同額補助金の使い方。
幹事報告
・ガバナーエレクト事務所開設のお知らせ
 2006-07ガバナー 岩森 茂
 所在地;ホテルグランヴィア広島6F
・BOX配布物の確認→広島14RC合同懇親ゴルフ大会ご案内
 ホスト広島東RCにより開催、今回は趣向を凝らした懇親会を開催する予定であり、懇親会のみの参加も多数お願いします。 回答締め切り9/30
・合同例会のご案内をメール及びFAXにてご案内しておりますので、
 今月末日までに出欠回答をお願いします。
・地区大会の出欠回答締め切りが本日となっております。
 回答状況を回覧しますので、例会終了までに未回答の方はご記入下さい。
委員会報告等
・出席委員会=出席報告
・社会奉仕委員会=愛のコイン箱

卓話時間

被爆当日の想い出

熊野 巧君

 真夏の灼熱の太陽がふり注ぐ、六十年前の昭和二十年八月六日午前八時十五分、閃光が 走った一瞬、その一瞬とは人類史上比類なき悲劇である原爆投下の一瞬です。
 それは、広島の街を瞬にして焦土と化し、多数の市民の命を奪い、壊滅的な被害を与えました。
 私は十五才でした。学徒動員で邊儔残?了杏?ちァ並さ 砲愬杪阿箸覆蟠侈海靴討?蠅泙靴燭? 戦局が厳しくなり、工場が爆撃を受けた時の事を考えられ、己斐に分工場を作られ、私達同級生の五十名の内、二十五名がその分工場へ配属になりました。
 そして、本工場には担任の住川先生がおられ、私は分工場で二十五名の同級生のお世話をすることになり、現場事務の仕事をしていました。
 午前八時が始業時間で朝礼を済ませ、喉が乾いたので水を飲もうと一歩屋外へ出たときでした。その瞬間、ものすごい爆風と熱線、熱風で私は数米飛ばされて氣を失いました。数分後、氣がついて起き上がった時、今迄目の前にあった工場の建物が倒壊し、屋根だけになっていました。屋根の下敷きになって助けを求めるクラスメイトと工場の人達を必死で助け出しました。私が使っていた机の上は、梁が落ちて机が真っ二つに割れており、もし私がそこにいたら命はなかったと思います。そして暫くすると真暗になり、俄かに夕立の数倍の量のまっ黒い雨が降り、全身がずぶぬれになり、白いシャツがまっ黒になりました。暫くすると伝令がきて、市内は火の海で全滅になっているので、市内に住んでいるものは郊外の親戚か友人をたよって市外へ非難するように、との指示を受けましたが、私はどんな事になっても我が家へ帰る決心を致しまして、己斐駅前迄来たけども道路は全て家が倒れてふさがれ、燃えているので、一般の道路は通れないため止むなく、電車道は少し道巾が広いので、なんとか通れそうなので、福島町から天満町迄なんとかたどりつきましたが、その間、市の中央より全身火傷の人達が避難されてい訛燭?了僂論気砲海寮い寮乎蝋?如△修両襍覆六笋稜称△?蚓イ譴襪海箸睨困譴襪海箸盻侏茲泙擦鵝E桂??躑瓩?蕕浪个粒い如?貔?茲皹譴髪蠅埜?┐此?鬚だ??鰺蠅蠅貿腓辰匿覆澆泙靴燭????読??海┐修Δ砲覆辰燭里如???始?討某?淑討??砲△辰針媛仗總紊砲兇屬鵑反擦?蝓?腓Δ茲Δ棒??鬚燭茲蠅某覆漾???覆辰討燭泙蕕覆?覆辰燭蕕泙拭∨媛仗總紊砲兇屬鵑反擦?蠅覆?蘊?靴鼎朕覆澆泙靴拭?修靴禿擽局躑瓩泙罵茲浸?了?任后
 線路横の道路に男子生徒がずらりと並んで倒れていました。その中の一人の生徒が、私の足を掴みました。「僕は○○中学の一年生の○○です。家は安古市です。どうか連れて逃げて下さい。私を助けて下さい。」とその生徒は私の足をしっかりと握って必死で懇願するのです。助けられるものなら何とか助けてやりたいと思いましたが、炎がどんどん迫って来ます。その時私はこう叫び
ました。「連れて逃げてあげたいけれども、このままだと二人とも死んでしまいます。こんな目にあわせたのは憎き米英のせいです。君の仇はきっととってあげるから足を離してくれ。」と、必死で懇願しました。その時、その生徒がパッと離してくれて、私は自由の身となり、離れることが出来ましたが、うしろ髪をひかれる思いで何度も引返してみました。そうして死を免れたのです。
 そして、十日市まで来ましたら、全身火傷の兵隊さんが立っておられ、これから相生橋方面へは一歩も通れないので、横川方面へ逃げる様に云われ、横川方面へ逃げました。横川駅まで行きましたら、一般道路は全く通れないので山陽本線の線路へ上り、白島の長寿園の長い長い鉄橋を渡りましたが、生まれ始めての鉄橋渡りで、こんなに長く感じたことはありませんでした。白島の長寿園の土手を通り、工兵橋を渡り、牛田の自宅に帰りました。 
 自宅は四十五度傾いて柱だけ残っていましたが、家族は全員無事で、抱きあって喜びました。家に着いたのは午後四時半過ぎだったと思います。逃げる道すがら、出逢った多くの人達は全身火傷で丸裸に近く、そして血まみれで全身火傷の母親が、全身火傷の我が子を抱いて逃げていた姿等、まさにこの世の地獄でした。そして翌日より、親戚の人を救助するため、市内に入った時の市街の状況、又昨日の土橋のところへ行ってみましたら、全員白骨になっていて、涙がとまらず、その場に立ちすくみ合掌を致しました。
 この様な状況は、まさにこの世の生地獄でした。その様な多くの犠牲者の姿、状態は私の脳裏に焼きついて一生忘れることは出来ません。あの戦争の原爆のむごさ、消された命、残された者の悲しみは何十年たっても生々しく思い出されて、涙が止まりません。私はこの様なお話はしたことは殆どありません。それは思い出したくないからです。又、私は原爆症で悩んでいます。我が子を原爆奇形児で亡くした事、背髄腫瘍で大手術をした事、くも膜下出血で生死をさまよった事、胃も肝臓も大病した事・・・等々、しかし乍ら、私はこうして生かされております。
 この生かされた命を大切にして、これからは社会の為、世の為に尽くそうと思っております。
 最後に、原爆でお亡くなりになられた多くの犠牲者のご冥福と、人類の永久平和を心から祈念申し上げつつ、私の拙いお話を終わらせていただきます。ありがとうございました。  合掌

  平成十七年八月二十二日

広島中央ロータリークラブ例会の卓話時間にて  熊野 功

ニコニコBOX

ページの先頭へ戻る