- 本日のプログラム
- 新会員卓話 「自己紹介」
- 卓話者
- 尾形 聡君
- 担当
- プログラム
- ゲスト
- NPO蓮笑庵くらしの学校 代表 渡邊仁子様
- 祝事等
- ・連続出席表彰(8名)
・結婚記念日(2名)
・入会月(6名)
・創業月(9名) - 会長時間
- ◎野球観戦家族会開催への謝礼
◎.福島のからのゲスト
◎懇談の場の設置
◎ガバナー公式訪問 - 幹事報告
- ●100万$食事(幹事告知)
●BOX配布物の確認
①理事役員会議事録・9月例会プログラム
●回覧物
①8/25ガバナー公式訪問・フォーラム(締切8/12未回答多数)
②地区大会本登録回答書(本日締切)
●例会について
次週はガバナー公式訪問ですので、万障お繰り合わせ上ご出席ください。 - 委員会報告等
- ・職業奉仕 : 禁煙例会、四つのテスト唱和
・出 席 : 出席報告
・ロータリー財団委員会 : 愛のコイン箱
卓話時間
新会員卓話「自己紹介」
尾形 聡君
尾形家は広島県佐伯郡五日市町石内村に室町時代から続く百姓一家です。江戸時代には村方三役、庄屋にもなりました。祖父は修道高校を特待生で卒業し後に海軍少佐となり駆逐艦「雪風」の艦長にもなった賢い人でした。祖母は映画監督新藤兼人氏の姪で近所に住んでいましたが、新藤家の没落で尾道に移り住み、戦時中に祖父が帰港した呉で祝言を挙げました。父が1歳の時、昭和20年6月津軽海峡で魚雷攻撃にあい祖父は戦死。祖母は若かったため離縁され父は1歳の時尾道の母と離ればなれとなり尾形家の跡取りとして石内に引き取られてきました。父は家を手伝いながら苦労して広島学院、広島大学工学部へと進み一級建築士として社会に出ました。母は米国移民の家系で上海の貿易商の家に生まれましたが、1歳の時終戦を迎え着の身着のまま本家がある草津村に帰ってきました。草津に親戚のあった父は祭りのときに母に目をつけ、母が広島大学受験の日に電車の中で声をかけ、その後5年間付き合い2人は広島大学卒業後結婚しました。そして1年後の昭和43年9月8日私が生まれました。
小学校まで石内の田舎暮らしで塾へも行かず偶然合格した広島学院ではなかなかなじめませんでしたが、得意の野球でクラブの中心選手となると集団生活にも慣れ、学業の成績も向上していきました。高校は軟式野球でしたが県大会で優勝し、やればできるという自信と良い思い出ができました。高校3年のとき体育の授業でバスケット中、ジャンプしている途中体当たりされ、ひどい捻挫をしましたが、そのとき運び込まれた整形外科での治療に感銘を受け医師を志すようになりました。翌年広島大学医学部に入学しスポーツDrを目指して、野球や勉学に励みました。しかし、ここで人生を変える二つの大きな挫折を味わいました。一つは試合中にボールに飛びついて肩を脱臼し思う様なプレーができなくなったこと。もう一つは大好きだった彼女が韓国のプロ野球球団の息子に寝取られたことです。死ぬほどつらい思いを乗り越え、それ以降失敗した人を許す、楽しく生きる、型にはまらない人生を送るなど、人として一回り大きくなったように思います。医学部卒業時には安易な道に走るより苦手なことに挑戦したいつもりで得意とはいえない内科を選択しました。
父は努力家で書道、美術、野球、柔道、歌、ゴルフと才能豊かな人でしたが、煙草は1日60本、体重は100kgを越え、血圧は常に200mmHg以上、週4日の飲み会に出かけ不健康極まりない生活を送っておりましたが、案の定47歳で旅行中米国の山中で脳幹出血で倒れました。才能があっても早死にしては何もならないと思うと同時に、米国の救急医療の最前線を見学し7年間寝たきりの身内の介護は医師として大変貴重な経験でした。また結婚して双子の娘を授かりましたが、2歳までに2人で4回の大手術を受け、その後も専門医やさまざまな専門家と相談しながら大変苦労して育てていますが、一緒にカープや旅行や温泉を楽しみながら暮らしています。
昨年10月にロータリークラブに入会しましたが、入会までに数多くの会員の方々にお世話になり、また自分が医師として何とかやっていけているのは、今までの様々な経験、先祖代々の血筋、家族の犠牲のもとに成り立っていると思います。感謝の気持ちを忘れず「生きている限り生きぬきたい」(新藤兼人氏の言葉)と思います。