- 本日のプログラム
- ゲスト卓話 「頼 山陽とその周辺」
- 卓話者
- 作家 見延典子 氏
- 担当
- プログラム委員会
- 黙祷
- ・広島西RC所属 香川 勝(かがわ まさる)会員が、6月14日ご逝去されましたので謹んでお知らせいたします。(63歳)
- 会長時間
- ・「なぜロータリアンになったのか?」「なぜロータリーに入会するのか?」との問いに対する20の回答のうち最終15-20紹介
まとめの言葉/一人一人わずかながら国際ロータリーにより世界につながっていると認識したい。 - 幹事報告
- ・回覧物
(1)次年度会員名簿の校正をお願いします。
(2) 次年度連続出席バッジ希望の種類を記入して下さい。
・次週例会のおしらせ
昼の例会を夜18:00からに変更して、最終夜間例会を半べえにて開催。 - 理事役員会
- ・本日18:00?新旧理事役員引継会を「豆匠」にて開催
- 委員会報告等
- ・出席委員会=出席報告
・社会奉仕委員会=愛のコイン箱
・国際奉仕委員会=使用未使用古切手類収集
卓話時間
ゲスト卓話
「頼 山陽とその周辺」
作家 見延典子 氏
一昨年(2004)十月から、中国新聞に連載を続けている小説『頼山陽』はおかげ様で四百回を越えた。
頼山陽といえば、『日本外史』を著した博学者として、固いイメージがあるが、私の小説では「江戸時代を生きた現代人」と想定し、既成の概念にとらわれない自由人、自らの「欲望」に忠実に生きる人物として描いている。
すでに四百回を越えていることから、これまでの内容の全てを振り返るのは時間的に無理であり、今回は『日本外史』を中心に述べていきたい。
そもそも『日本外史』とは、源平の時代に始まる武家の興亡を、山陽が生きた時代、つまり徳川第十一代将軍家斎の時代まで、六百年にわたって綴ったものである。
歴史書とはいわれているが、誤りも多く、というより山陽自身、内容を面白くするため脚色を加えたところがあって、今日では歴史小説という評価が定着している。
現在も岩波文庫に収められるし、口語訳も出版されているが、漢文教育を熱心に受けてこなかった世代には大変読みにくく、なぜ幕末ベストセラーとなったのか理解しにくい面もあろう。
この点については江戸時代の事情を考えねばならない。現代でこそ歴史書は手軽に入手し、読むことができるが、当時は徳川家に対して発言することは禁じられており、歴史書を書くことは禁忌に触れる危険もあったことから、多くの学者は二の足を踏んでいた。仮に書いたとしても、当たり障りのない内容であった。
六百年にわたる通史を書いた山陽が、どれほど勇気があったのか、おわかりいただけよう。
但し、『日本外史』は山陽の生前は出版されなかった。費用の問題もあろうが、公刊されるまでには各方面の理解を得る必要があったためだろう。
ところで『日本外史』は尊皇論が基盤となっている。そのため山陽は尊皇家と呼ばれる。
現代的感覚からいうと、尊皇論にはナショナリズムに結びつく考えがあると受け取る傾向があるが、江戸時代、尊皇論は徳川家も容認しており、その意味では最も安全な考え方であった。
しかし安全な中にも、反幕的な思いも隠れている。それは徳川家の主流派、反主流派の対立があったからだ。ここに山陽が後世、評価を変えられていく萌芽が潜んでいる。
山陽の死後、時代が加速度的に変わり、幕末には尊皇攘夷が叫ばれ、息子の三樹三郎は安政の大獄で刑死した。
山陽にとっては想像もしていないことだったろう。
しかも王政復古後、明治政府の政権を固める支柱となったものが、『日本外史』とあわせて書かれた『日本政記』であったことを考えると、山陽の思想は軍部によって都合のよいように利用された。
明治時代、広島には大本営が置かれ、臨時議会も開かれた。広島は軍部であった。
山陽が理想とした国家が、このような形のものであったとはとうてい考えられない。
誰が歴史を、いや、山陽を歪めてしまったのかが、私の小説の後半の大きなテーマである。