- 本日のプログラム
- クラブフォーラム(国際奉仕)
「医療人と国際平和活動」 - 卓話者
- 碓井静照国際奉仕理事
- 担当
- 国際奉仕委員会
- 祝事等
- ・会員誕生日祝(5名)
・夫人誕生日祝(5名) - 会長時間
- ・2月は世界理解月間、2/23はロータリー創立記念日(特別な日)に因みポールハリス語録紹介(シカゴにて異業種人の親睦を求めて・・・)
・愛知万博にて開館していたロータリー館の館長 豊島氏より、感謝を込めての各クラブ名入硬質ガラス製銘板記念品が届いた。 - 幹事報告
- ・BOX配布物の確認⇒ガバナースレター,ロータリーの友,1月理事役員会議事録
・回覧物
1) ロータリー財団2004-05年度年次報告
2) 国際ロータリー奉仕の100年 2004-05年度年次報告
3) 「新潟県中越大地震災復興支援活動の記録」
4) 2006-2007年度版ロータリー手帳注文書
・国際ロータリー第3690地区(韓国)地区大会ご案内
と き:2006/4/22?4/24
*親善訪問ツアーを企画していますので、ご利用下さい。詳しくは掲示板を参照して下さい。 - 理事役員会
- ・本日例会終了後12階「ライラック」にて理事役員会開催
- 委員会報告等
- ・出席委員会=出席報告
卓話時間
クラブフォーラム(国際奉仕)
「医療人と国際平和活動」
碓井静照 国際奉仕理事
ロータリークラブでは2月を国際奉仕月間に指定しています。全てのクラブが一時、手を緩めて、世界平和のために理解と善意を強調する特別活動をしようとするものです。この特別月間を実施するために多くのクラブは国際的な講演者を招くプログラムを組むなどしていますが、経費節減の折から、今日のフォーラムは私が自分の経験を交えながら、主にIPPNW(核戦争防止国際医師会議)についてお話します。
中央ロータリークラブには私のほかにも平松、土肥、生田、田原会員など国際的に活動をしている人は多いのです。皆さん個人的に活躍しているだけでなく一般医師会員、歯科医師会員としてIPPNWに参加、支援していたり、会費を払ったり、会議に参加したりして運動を高めたり、維持につとめています。
広島県医師会の国際活動は、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)活動、HICARE(放射線被曝者医療国際協力推進協議会)、在北米および、在南米被爆者健診事業などが柱です。旧ソ連(CIS)の崩壊の折には核兵器の管理がずさんになる懸念のため、アメリカ、ドイツ、スウェーデンの代表とともに、CIS非核化キャンペーンと称してロシア、ウクライナに行きました。
この他にも広島に原爆が投下された直後に、15トンもの医薬品をもって広島を訪れたジュノー博士の顕彰をしたり、ジュネーブを訪問したり、米国によるベオグラード空爆の折には4つの病院の被害を視察するなど、年中いとまなく活動しています。その中で核戦争防止国際医師会議(International Physicians for the Prevention of Nuclear War=IPPNW) の日本支部の活動について「医療人と国際平和活動」と題して述べてみます。
核戦争防止国際医師会議は、核戦争の脅威に対して、医療専門家としての影響力を動員し、研究・教育・唱導を通して正しい知識の普及に努め、核軍縮と核廃絶を求める中立的・超党派的な地球規模の医師組織の連盟です。
1980年、東西冷戦の最中、米国とソ連の一握りの心臓病専門医師により設立されたIPPNWは、核兵器は今後決して使ってはいけないというメッセージを、広く世界中の人々に届けた努力が認められ、1985年にノーベル平和賞を受賞しました。当時の会長は米国のバーナード・ラウン、ソ連のエフゲニー・チャゾフ両氏でした。
1982年に設立されたIPPNW日本支部=JPPNWは、事務局を広島県医師会内に置き、非政治的組織としてIPPNW本部(米国・ボストン近郊にある)の規約を尊重し、医師としての使命に基づき、医学・生物学的立場から核戦争防止のために可能な限り努力を払うことを目的としています。
現在、IPPNW加盟国は58カ国で会員数は約10万人。日本での会員、即ち、JPPNWの会員数は平成17年2月現在3512人です。
核兵器が一旦使われれば、世界のどのような医療をもってしても犠牲者を救済することができないことは、60年前に広島・長崎への原爆投下で大惨事を経験した日本の医療人が最もよく承知しているところです。(以下続きはホームページで)
私は8歳の時、爆心地から2.4?のところで被爆しましたが、ここでは「IPPNWアジア太平洋地域会議」(フィリピン・マニラ)に参加して被爆体験を話したときのことを紹介します。
(1) 原爆ドーム
広島で被爆した多くの建築物の中で、最も鮮明に原爆の破壊力を象徴した建物が「原爆ドーム」です。このドームの上で原子爆弾が炸裂しました。1989年広島では、この建物を永久保存するための資金として多くの人々が総額2億5千万円を寄付しました。私達はこの原爆ドームが被爆・破壊される最後の建物であることを願ってやみません。原爆の開発について深く関わった人はアルバート・アインシュタインでした。
アルバート・アインシュタインは大正11年(1922)日本を訪問しています。その折に京都、仙洞御所の庭の白い石をみて「自分の人生でこんなに安らぎを覚えたことはない」といい、その時原子力と宇宙の理論を考えたといわれています。すなわち、小さな質量をもっているものでも、光の二乗をかけたら、巨大なエネルギーになる理論です。光の速さは一秒間に三〇万キロメートルだから、これをウラニウム、プルト二ウムに応用すると莫大なエネルギーになります。この理論が原爆の開発に応用されたのです。
ソニービルが何本もそびえているベルリンの近くに森の美しい街、ポツダムがあります。1945年、ドイツが敗れ(1945.5.8)、7月に、チャーチル、トルーマン(ルーズベルト4月12日死去代理)、スターリン、がヤルタについで、ポツダムで会談、このとき、ベビー誕生の電信がトルーマンにはいったのです。広島、小倉、新潟、長崎が原爆投下の候補に選ばれました。
1945年8月6日午前8時15分、B―29爆撃機エノラ・ゲイ号から投下された原子爆弾「リトルボーイ」は重量4t、実際に爆発したウラニウム235の量、約1?の小さな爆弾でした。しかしそれは従来のTNT爆弾、約1万3千tと同等の破壊力で、広島市の大部分を破壊、焼失し、大量の放射能をもって市民の身体を射し貫いたのです。
原爆は広島市中心の上空580mで爆発し、瞬時に摂氏、100万度もある灼熱の大きな火の玉になりました。この火球から放射された輻射熱と爆風は広島市の市街地約13K?焼き尽くし、約30K?におよぶ区域を破壊したのです。
(2) 私の被爆体験
私の実家は牛田町の小さな寺で、原爆が投下された際、丁度近所の友を誘いに行くところでした。突然の閃光とともに目の前にあった煉瓦の塀がなくなり、全身にガラスを浴びたことを覚えています。牛田町は爆心から2.4?の距離にありますが、幸いにも私も家族も無事にすみました。
原爆投下直後の惨禍、数万人もの人が一瞬に熱線を浴び、頭や手の皮膚は第三度から四度の火傷でぼろきれのように垂れ下がり、助けを求めてやってきて、水を求めて死んでいった時の情景が今でも目に浮かびます。
老若男女の区別なく通常の殺戮兵器では見られない熱線、爆風、放射線を、一瞬に浴び、6万人が即死、10万人を超える人が次々と命を失っていきました。人々は橋の上、道路など至る所に倒れたままの死体を振り向きもせず、炎天下、ぞろぞろと逃げ場を求めて歩き回りました。水を求めて川岸に降り、そのまま倒れた人も多く、白い河原は見る見る黒い焼死体の山となっていったのです。午後になって、放射能を帯びた黒い雨が夕立のように降り、破れた傷が痛んだといいます。原爆投下後、午後になって無数の人々が市の中心から避難してきました。次々と牛田山南の防空壕に怪我をした人々が運び込まれ、「水をくれ」と低い声で哀願する中、軍人が「水を飲ませてはいかん」と大声で叫びながら通り過ぎていたのが今でも目に浮かびます。
日が暮れ、辺りが暗くなるにつれて真っ赤な火柱が街中に立ち上がり、広島は火の海となりました。まさにこの世の地獄だったのです。翌1945年8月7日からは至る所の公園で、小学校校庭で、河原で、赤黒く焼けただれた死体の火葬が始まりました。男女の区別もできない死体、つい先程まで「お母さん」と見失った母の名を呼んでいた子どもも、ついに息絶えて荼毘に付されていきました。生き残った人々は川に浮き沈む無数の焼死体を竹竿で引き寄せては積み上げ、重ねては焼いたのです。
そのことに関してつぎのような悲しい短歌が選ばれています。
探ね得し屍の妻に瓦よせ火をあふりゐる男がありぬ
蝿黒くたかりし死体押し除けてもの洗いたりここの河原に
い照る陽の光も凍れ息しいる人間の膚に蛆食いこめる
忘れ得ぬ惨き炎を綴りたるこれの記録の深く読まれよ
世話ずきの清水の叔父が日ごと夜ごと 焼きたる屍六百を越ゆ
(5)原爆の悲惨さ
原子爆弾が従来の爆弾と異なる点は、主としてその人間殺傷力の大きさにあります。原爆の威力の特色としては三点が挙げられます。その第一が熱射作用、3~5?離れた人間に火傷を負わせるほど強烈なものでした。
原爆の威力の第二は放射能です。爆心地における中性子とガンマ線の量は人間の致死量の約50倍もあったといわれています。
当時は、この放射能について医師も全くと言っていいほど知識がなく、救護の現場では治療の術もなく、ただ見守るだけというのが現実でした。
第三は爆風です。その圧力は爆心地では1?あたり35tもあり、音速に近い強烈な爆風はほとんどの建物を倒壊させ、またその後の火災を誘発したのです。
かくして1?以内の約90%が即死、または2、3日のうちに死亡しました。
1~1.5?の範囲では、屋外の人々は重度の熱傷および致死量に近い放射線を受けたため、2~3週間での死亡率は60%に上りました。
近距離で多量の放射線を受けた場合、まず脱力感を伴った渇きや吐気が表れ、2~3日後には高熱による昏睡と歯ぐきからの鮮血が続く中、多くの患者は食物を摂取できない状態で死亡していきました。
1週間以上持ちこたえた患者にも高熱や皮膚の出血斑や脱毛症状、腸出血があり、白血球が正常の7分の1以下に減少した場合、多くは間もなく死亡しました。
一方火傷を負った人々は高温の輻射熱によって皮膚の深い部分まで冒されました。
火傷の範囲が広い場合患者は数日中に死亡しました。また熱傷範囲の比較的狭い患者も熟練医師の不足から適切な治療を受けることができず、数ヵ月から1年もかかって治癒した火傷はケロイドとなって残りました。
原爆投下時の広島の人口は約34万人といわれています。そのうち12万3千人が被爆後1年以内に死亡したとされています。
「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから」
今日の広島を見ると、平和公園や原爆ドームを訪れない限り、一見他の都市と何ら変わらないたたずまいを見せています。しかし、日々医療に従事する者にとって、原爆の傷痕は依然として残っていると言わざるをえません。
原爆投下当時、広島にいた人には「被爆手帳」が発行されていますが、この医療補助を利用する患者は日々絶えません。
こうした患者と接すると、原爆の傷痕が単に身体的なものにとどまらず、精神的な強迫観念として深く刻み込まれていることに気づきます。即ち、原爆症といわれる悪性の疾患がいつ発病するかもしれないという恐怖を常に背負う精神的重圧です。この傾向は、被爆者本人のみならず彼らを取り巻く人間関係の中にも見られます。これが無意識のうちに被爆者が社会的に疎外される要因になっているとも考えられます、放射能を放出する核兵器が通常兵器と異なる点は、単に破壊力の違いだけでなくこのような目には見えない部分にもあるといえるでしょう。
(6) 被爆医療の原点
我々医療関係者は、今日の医療レベルでは、致死量の放射線を被爆した患者を治癒することは不可能であると思っています。このような核弾頭が世界に数千個も蓄積されている今日、我々の置かれた状況がいかなるものであるかは語る必要がないほど明確です。
広島・長崎に住む人々は、核兵器が使用されることのない平和な世界を静かに祈り続けています。この「静かな祈り」は、それぞれが平和を願う証として日々黙々と生活を続ける被爆者の生きざまそのものであり、一見声高らかに叫ばれながらイデオロギーの対立をみせる政治的「平和運動」とは一線を画すものです。
被爆者からは、史上最も悲惨な兵器による大量殺戮を行った国に対する憎悪も、そのような戦いに導いた自国の政府に対する憎悪も、今日感じることはありません。対立する民族・国家間の軋轢(あつれき)から生じた人災であったというものです。したがって被爆者の「静かな祈り」には誰に対する怒りも主義主張の左右もなく、あるとすれば戦争を生み出す怒りそのものに向けての、否定ではないでしょうか。
当時の広島の医療従事者は疎開することは許されませんでした。原爆被災の折には、自らも傷つきながら、治療法もわからず、医薬品の少ないなかで、マーキュロ、チンク油を薄めて使って治療に当たりました。出血して死んでいく人達の様子をカルテに記載しました。これが後の被爆者医療の原点になったのです。医療関係者は常に医療の現場に立ちます。そのような職業にある我々が、核兵器に対して、核戦争防止に対して行いうること、それはやはり医療活動と同様、「核戦争防止の処方箋を出すこと」であると考えます。
東西冷戦が終わり、核戦争の危機は遠のいたかのようにみえますが、地域紛争、民族紛争、テロはあちこちに起こり、私たちは何処にいても安全な場所はありません。世界の核兵器がおよぼす地球規模の脅威は、かつてないほど深刻であり切迫しています。今なお約2万発、うち約5千発の核兵器が臨戦態勢下にあるために、偶発的核戦争の恐れがあります。
(7)平和への努力をした人々
原爆ドームのそばの小さな川を隔てて平和公園があります。そこには「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから」と書かれた黒い石碑があります。世界平和を願う広島市民の慰霊と平和への決意を込めた言葉です。
被爆直後、平和への献身をした人々の一人に原田東岷医師がいます。
1948年当時、原田東岷博士はケロイド治療、特に原爆乙女のケロイド治療に専念されていました。ちょうどその頃、米国の新進気鋭のジャーナリストであったノーマン・カズンズ氏は広島を取材に訪問し原田博士のケロイド治療への苦難にみちた取り組みを知りました。カズンズ氏はニューヨークのマウント・サイナイ病院での原爆乙女のケロイド整形手術プロジェクトを開始しました。しかし最初の手術を受けた女性は麻酔中に死亡し、マウント・サイナイ病院のスタッフを大変悲しませたのでした。2003年1月、私はマウント・サイナイ病院を訪れたが、いまや誰も原爆乙女を知る人はいませんでした。被爆後60年が経ちましたが、忘れてならないのはノーマン・カズンズ氏の献身的プロジェクトです。
ノーマン・カズンズ氏はアメリカの良心をもっていました
「原爆投下、それは戦争中とはいえ許される行為だろうか・・・。それを償うためにはアメリカ人の1人として何をすべきか」。彼によって原爆乙女プロジェクトは全米に報道され、原爆の悲惨さは多くのアメリカ人の知るところとなり、広島は「ヒロシマ」として市民は核実験禁止、核戦争防止の先導者となったのです。2003年8月2日、広島の平和公園内にてノーマン・カズンズ氏の石碑の除幕式が行われましたが、石碑にはノーマン・カズンズ・笹森氏の英文と私の意訳が刻んであります。「平和は誰かが与えてくれるものではなく、自ら努力してつかむものだ」と。
ノーマン・カズンズ氏は原爆乙女の世話をする一方自らも重い膠原病に罹りました。彼は笑いの効能、笑いは免疫力を高めることを信じ1日3回、喜劇俳優を雇って大いに笑って、当時は500分の1といわれた治癒率に挑戦し、治癒に成功しました。
被爆当時、救援に貢献したもう一人の人はマルセル・ジュノー博士です。
1945年赤十字国際委員会の駐日代表として来日していたジュノー博士は、広島の原爆被災の惨状を聞くや、医師として放射能の恐ろしさを知りながら、15tの医薬品とともに9月8日来広し、廃墟と化した市街地に入り、救護所で自らも被爆市民の治療にあたりました。
博士によって届けられた医薬品によって数多くの被爆者が救われました。
(8) 私のIPPNW活動などへの取り組み
隔年に世界大会と地域会議を行っているIPPNWでは、1989年に広島で第9回IPPNW世界大会を開催しました。1991年にはソ連の崩壊により、核兵器の安全管理に不安が生じたため、ロシア、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシの4カ国に対して非核化キャンペーンを行いました。
2005年は広島に原子爆弾が投下されて60年目、一瞬にして6万人の命が失われ、1ヶ月の間に20万人の命が失われて60年になる年です。
IPPNWは、各国政府が核兵器の軍備縮小・廃絶へと向かえるような環境整備ができるように、まず関係国の医師・医療関係者同士の信頼関係の構築を行っています。IPPNWの最終的な目標は世界の核兵器を廃絶することですが、地域ごとに核兵器をなくしていこうと、世界を9つの地域(アフリカ、ヨーロッパ、ロシアと旧ソ連、北米、中南米、中東、南アジア、東南アジア太平洋、北アジア)に分けて活動を展開しています。アフリカ、中南米、東南アジア、太平洋はすでに非核地帯です。
日本は、中国、韓国、北朝鮮、モンゴルとともに5カ国でIPPNW北アジア地域を構成し、この地域の指導的役割を担っています。JPPNWは、朝鮮半島を含む北東アジア全体が、より健康で安全に、さらには平和で安定のある地域になるために資するべく、さまざまなプログラムを提案・実施しています。
ここで私のIPPNW活動などへの取り組みについて紹介します。
1985年6月には南部アフリカの内戦や凶作による飢饉がBBC放送で伝えられたため、ザンビア、メヘバ難民キャンプを訪問。
1987年(昭和62年)
「第7回IPPNW世界大会」(モスクワ)に組織委員会委員として参加。
1989年10月(昭和64年)
「第9回IPPNW世界大会」(広島・長崎)に組織委員会委員として参加。
1990年8月
「第2回IPPNWアジア太平洋地域会議」(フィリピン・マニラ)に国際副評議員(広島県医師会常任理事)として参加。
1990年8月
IPPNWソ連支部の公式招待によりソ連支部を訪問、モスクワ、キエフ、リガ、レニングラード各支部との友好・交流を深める。
1991年6月
「第10回IPPNW世界大会」(スウェーデン・ストックホルム)に国際副評議員として参加。北朝鮮からオブザーバーとして3名が初参加。
1991年11月
「旧ソ連邦共和国非核化教育キャンペーン」準備会議(モスクワ)に出席。
1992年1月
IPPNW定例執行委員会(ボストン)に横路IPPNW副会長代理として出席。
1992年2月
「第3回IPPNWアジア太平洋地域会議準備会議」を広島で開催。IPPNW未加入の中国、朝鮮民主主義人民共和国(DPRK・北朝鮮)と加盟国の韓国、日本の四者の代表など22名が参加した。
1992年3月28日~4月10日
「旧ソ連邦非核化教育キャンペーン」のために、バーナード・ラウン共同会長をはじめ10名のメンバーからなるIPPNW代表団の団員として、旧ソ連の4つの核兵器保有共和国(ベラルーシ、カザフスタン、ロシア、ウクライナ)を訪問。
1995年7月
「原爆被爆五十周年IPPNW日本支部大会」(広島)に日本支部理事として参加。
1999年8月
ユーゴスラビア医療支援のためベオグラード、ノビサドを訪問。
1999年10月
「第2回IPPNW北アジア地域会議」(中国・北京)に日本支部副支部長として参加。
2002年5月
「第15回IPPNW世界大会」(米国・ワシントンDC)に日本支部副支部長として参加。
2003年10月
「第4回IPPNW北アジア地域会議」(京都)に日本支部副支部長として参加。
2004年9月
「第16回IPPNW世界大会」(中国・北京)に日本支部長として参加。
2005年8月
「第5回IPPNW北アジア地域会議」(広島)を日本支部長として主催。
こうした広島の医師たちの真摯な核廃絶への努力もなかなか実らないのが実情であります。
(9)米中枢同時多発テロ
2001年9月11日の米中枢同時テロが起こりました。また2005年7月7日、ロンドンでテロがありました。その後も、不安はくすぶっています。今世界に安全と言い切れるところはありません。イスラム教とキリスト教の戦いは995年の十字軍のころから、1010年も続いているのですが、根源は紀元前までさかのぼるといわれていますから困ったものです。
2001年9月11日の米中枢同時テロ以後、活発化したテロ集団が、核管理の杜撰(ずさん)な旧ソ連諸国などから核関連物質や核兵器を入手しようとしているとも言われています。ラウン博士は、百万ドルで核情報、2百万ドルで核兵器、3百万ドルでミサイルが買えるとも言っています。一国主義を突っ走る米国は、核兵器による先制攻撃をも辞さぬ構えをみせ、小型核兵器開発を目指し、安全保障面での核兵器の役割を強調。また、2005年5月のNPT(核拡散防止条約)再検討会議は決裂、NPT体制は崩壊寸前の状況と言われ、核廃絶の展望は全く見えていないのが現状です。
それでも、平和は誰かが与えてくれるものではなく、自ら努力してつかむものだと思います。だから私たち医療関係者は、あらゆる機会をとらえ、平和のメッセージを発信しなくてはなりません。
また今年はIPPNWにとって地域会議の年で、世界の各IPPNW地域で地域会議を開催してきました。その内の北アジア地域会議は、被爆60年を迎えたここ広島で8月20日から21日に行われたのです。これは、世界平和を訴えるうえにおいても意義深いことだと思います。
(10)被爆者医療の見直し
ところで、広島、長崎での原爆被爆者の原爆症認定審査の結果について、納得出来ないと、不服訴訟を起こす人が増えています。被爆者の罹っている病気と被曝との因果関係に対する判断が間違っているといっているのであります。被爆者医療の見直しについて私見を述べてみたいと思います。
先ほど申しましたように、原爆の惨禍の中で、家族を失い、家を焼かれ、自らも傷ついて、現在もなお後遺症や心の不安に悩む被爆者、北アメリカ、ブラジル、韓国のいる被爆者も今や誰もかれも老いてしまいました。胎内被爆者でさえも59歳になっています。皆さん、せめて現在罹っている疾病に対して、原爆被爆に起因すると認定していただきたいと書類を申請しているのですが、白血病や癌なら、比較的認定されやすい事もありますが、大抵の人は却下され、不満とやるせない思いにさせられています。
癌に罹っていても、癌の転移もあり、この先、命が短いと思われる高齢の被爆者でも、いとも簡単に、再審請求を却下されることがあります。その人が長い間苦しんできた病気との闘い、人に言えない悩みを踏みにじるような結論が一枚の紙切れに印刷されて送ってくるのです。
なぜでしょうか。それは原爆症認定の審査の基準が、唯一の科学的根拠とされる放射線被曝による影響だけを考慮しているからです。それも、爆心地からの正確な距離を計算して、認定疾患ごとの疾病発症の原因確率を算定して判断しているからです。いくら近距離で被爆しても、罹っている疾病が原爆症の認定疾患でなければ認められないし、いま、医療が必要であると認められなくてはならないのです。
一般的にいって、爆心地から、2?以内でなければ認められないし、原爆投下直後に入市しても、爆心地から1?以内でなければ殆ど問題になりません。被爆した翌日以降、入市したことは、まず放射能の影響はないとみなされています。残留放射能についても、広島の己斐、高須、長崎の西山、木場で僅かの放射能の降下をみとめ、その他の地区での放射能の降下は認めていません。
このことは一見正しそうに思われますが、原爆の投下場所と炸裂した高さが、最近の放射線影響研究所のDS02を用いた研究や広島大学原爆放射能医学研究所で、少しずれていたことが判明しました。
さらに、これまで原爆症と認定されていなかった慢性肝炎や症例が少なくて検討されていなかった副腎腫瘍などの疾患についても、被爆の影響の有無の検討が放射能影響研究所などで行われています。また、発癌のメカニズムとされるDNAの欠損に放射能が関与していることもわかってきました。黒い雨の降った地域の見直しも長崎では行われたところです。
白内障でも、いまや被爆当時と異なって歳月が経ち、明らかな原爆白内障の特徴を持つ人は少なくなっています。そのため老人性白内障とみなされる場合が多くなっていますし、ケロイドやガラスの破片があっても、たちまち不自由していなければ認定されないことが多いのが現状です。それは東京大空襲の時のけが人と、同じではないかとの見方からなのですが…。
要するに、被爆者医療が貧困なのです。長年の歳月を経て現在の高齢者に適合しなくなったのです。広島、長崎の被爆者は人類が経験したことのない原子爆弾という、卑劣な爆弾に被災し、熱射、爆風、放射能の中におかれました。避けることも、逃れることも出来なかったのです。治療もろくろく受けられなかった。そういった被爆体験や被爆者医療が風化してきていることも事実です。
原爆被爆者の疾病について、また被爆距離について見直し、検討が必要です。医学が充分に被爆者の疾病について解明されていなかった当時と違い、チェルノブイリ原発事故以降は被曝医療の進歩はかなりのものがあります。このノウハウは広島、長崎の被爆者に還元されなければならないと思います。
チェルノブイリでは、放射線被曝者のこころへの影響についても研究が進んでいます。糖尿病や脳血管障害、心筋梗塞などについても放影研だけの研究によらず、複数の施設での客観的な検討、研究が必要であり、急がなければなりません。被爆者は待つことが出来ないほど高齢になっているのです。被爆者医療は、援護的見地から見直さなくてはならないと提言したいと思います。
(11)在北米被爆者と被爆者の高齢化
平成17年(2005)は原爆被爆60周年という節目の年でありました。被爆体験、被爆医療を風化させてはならない、被爆地広島から、世界へ向けて核兵器廃絶のメッセージを送らなくてはならない、そういう願いを込めて、8月20日~21日、JPPNW・広島県医師会・広島市医師会の共催で、広島で第5回IPPNW北アジア地域会議を開催いたしました。
そして5月から、6月にかけて在北米被爆者健診をサンフランシスコ、シアトル、ロサンゼルス、ハワイにおいて実施しました。
2005年の夏は広島、長崎に原爆が投下されて60年目の夏でした。被爆者は男も女も、在外被爆者も、胎内被爆の方も高齢になってしまいました。
私は、在外被爆者の方々の実相に肌で触れるべく、2005年5月下旬、在北米被爆者健診事業を実施するために、ワシントン州シアトルを訪米しました。その時のことを朝日新聞に執筆していた「ただいま快診中シリーズ」の中に紹介しました。高齢化は在北米被爆者の方々も同様です。
ここでは、記事の一部を紹介します。
ただいま快診中(6)『北米の被爆者健康診断』~広島弁で話し 悩み聞く~
今年8月6日は広島に原爆が投下されて60年。原爆を投下したアメリカにも広島、長崎で被爆した方々がいらっしゃいます。今は北米で千人ほどいます。胎内被爆の方でも59歳ですから、皆さん高齢で平均年齢は73歳です。
いま、私は第15回在北米被爆者健診事業を実施するため、医師会の仲間とアメリカ北西部ワシントン州のシアトルにきています。
県医師会では1977年から、ほぼ2年に1回、北米に住んでいる被爆者の健康診断を独自に実施してきました。2年前からは、政府が開始した在外被爆者支援事業の一環として、県からの委託事業として行っています。
アメリカでの健診で問題となるのは、私たちにアメリカの医師の資格がないことです。そのため、現地の医師と協力し合って診療や検査を進めています。ボランティアの方もいて、とてもよく手伝ってくれます。
シアトルに到着してまず感じたことは、アメリカにいる被爆者のみなさんが、今か、今かと私たちが来るのを、待ちわびていらっしゃったことです。アメリカ西海岸にはたくさんの県出身者がいますが、高齢のため病気がちで、治療中の人が多いのです。
私たちは日本語で、それも広島弁で話しかけます。
「広島の医師も、皆さんの健康のことを心配しとるんよ」
そして、被爆者の方の悩みに耳を傾けます。
第一陣は次はサンフランシスコにうかがいます。第二陣は6月にロサンゼルス、ハワイに行く予定です。
私自身も被爆者です。患者さんと出来る限りじっくりとお話をしたいと思っています。
ただいま快診中(7)『在米被爆者訴訟』~被害者どこにいても同じ~
米西海岸には戦前、広島からの移民が多い街があります。生活が豊かになった人の中には、教育は日本でと、子どもを広島に行かせた人もいました。そして、1945年8月6日。子どもは不幸にも原爆にあい、命からがらアメリカに帰ったのです。被爆から60年、もうみなさん高齢です。
県医師会を中心とした第15回在北米被爆者健診事業の顧問として、シアトルでの診察を終え、サンフランシスコに来ています。シアトルでは7時間もかけてノースカロライナからやってきた69歳の女性や、バンクーバーから6人連れでやってきた常連さんたちのにこやかな笑顔がありました。
マスコミも来ました。NBCは診察風景のほか、高齢になった被爆者のこと、日本語、それも広島弁で語りかけていたというニュースを伝えました。
長崎で被爆した腎機能の悪い女性は渡日して健診を受ける準備をしていたところ、症状が悪化し透析を受けなくてはならなくなり、日本に行けなくて困っていました。そこへ私たちが訪問したので、とても喜んでくださいました。
サンフランシスコには18日に到着。空港でのチェックが厳しく、心電図計の予備バッテリーの積み込みでてこずりましたが、一行は元気で健診事業に取り組んでいます。
サンフランシスコの医師会は、県医師会と姉妹縁組をしていて健診に協力してもらっています。シアトルに続いて目標の140人を上回る見込みです。
こちらでも10日の在米被爆者訴訟の判決が話題になっています。国の内外を問わず、どこに住んでいても被爆者は被爆者ということが、定着してきているのではないでしょうか。
ただいま快診中(8)『米西海岸の被爆者』~がん検診に留意、相談も~
5月下旬、サンフランシスコで第15回在北米被爆者健診チームの健診が始まりました。午前7時半に会場に着くと、もう約20人の方がいました。受け付けを始めた時には受診番号を渡すのにも混乱するほどです。
内科、外科、婦人科を受診していただくのですが、特にがん検診に留意して健診をしました。1人30分以上かけて話を聞き、ソーシャルワーカーのような相談もします。
広島赤十字病院(広島赤十字・原爆病院)の近くで被爆したKさん、65歳。米東海岸のニュージャージーから9時間もかけてやってきました。泊まるのは知人の家。「とてもホテル代はだせないんですよ」。遠隔地からの受診者には多少の旅費は出ますが、宿泊代はでません。誰かが泊めてくれないと、遠くからは来られないといいます。
Mさん、83歳。41年に三次に両親と一時帰国。姉が市内にいて被爆し、翌日から姉を探しに広島市内に行きました。高齢になって具合が悪いので被爆者健康手帳の交付を受けようと思ったら、広島市内に入ったことを証明してくれる人はみんな死んでしまって困っています。「最近、三次で証明してあげようという人が現れたのですが、どうしたらいいでしょう」。半分あきらめ顔で尋ねられました。
桃を2箱も持ってやって来たのは、農園を経営しているSさん、78歳。広島市の中心部に行く予定だったのですが、たまたま電車に乗り遅れて助かったそうです。「孫と一緒に、千羽鶴を折っているのですが、まだ6百羽。千代紙が足りなくてね」と話していました。
2年ぶりの健診。「ここにくると、ほっとする」と誰もが私たちを歓迎してくれ、無事第一陣の健診は終了しました。
おりしも、原爆訴訟の地裁判決が平成17年5月下旬にあり、「どこにいても被爆者は被爆者」、被爆者はどこの国にいても被爆認定の申請をすることが出来るというものです。政府も控訴しないことになり、在外公館で申請を受け付ける方向になりました。広島県医師会としては、判決を強く支持するものであります。
(12)被爆医療施設の将来を考える
ここで話はやや異なりますが、私は広島県、市の被爆者を取り巻く社会資源のあり方について提言させていただきたいと思います。
広島市には放射線影響研究所、広島赤十字・原爆病院、広島県原爆障害対策協議会・健康管理増進センター(原対協)などの施設があり、広島大学には原爆放射能医学研究所(原医研)もあります。さらに県市の原爆被爆者対策課や、放射線被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)、県医師会内に核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部、在米被爆者健診事業班、広島県腫瘍登録室などもあります。
被爆者人口は年々減少しており、広島県における被爆者はすでに十万人を割り、6万人台です。その中で、それぞれの施設団体が財政的に厳しい状況に置かれ、施設の老朽化は年々激しくなっているところです。
そこでこれらの細りゆく原爆被爆者を対象とした施設を疫学、遺伝、放射線の研究など研究的な部門と、病院、健診所など臨床的部門をまとめ、政府、県、市は勿論、現行の被爆医療施設関係者、大学、一般市民、被爆者代表、経済界などの県民参加型の放射線被曝医療センターとするのがよいのではないかと思うのです。
それには厚生労働省、文部科学省、アメリカ科学アカデミー、アメリカ、エネルギー省はもとより広島県、広島市の行政、議会、地元選出国会議員の理解と協力、熱心な行動力が望まれます。この事業を展開させることによって世界で唯一の被爆地、広島、長崎両県民の国際社会へ向けての平和祈念の発進意欲も一層高まり、ともすれば風化しそうな原爆の悲惨さを、平和の尊さを末永く新しい世代に伝えることが出来るのではないでしょうか。